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短編小説 10月30日

ある晩、男は空を見ていた。
屋根の上から見下ろす街並みは、既に夜の闇に溶けていた。
大きな一つの影となった風景が、たくさん並んだ電灯の形に所々くり抜かれていた。
目を挙げればその不格好な切り絵も視界から外れ、空に浮かんだ大きな月の他には何も目に入らなかった。

吐息のように柔らかな、しかし吐息よりも冷たい風が男の頬をなでる。
コートを隔てて外界と遮断された体は、まったく温もりを奪われていないように思える。
同じ風が何度吹き過ぎようと、彼はここに座っていられる気がした。
しかしそれは思い過ごしであると男は知っていた。

実際には、冷たい風はばれないように少しずつ彼の体に忍び込む。
男が身をよじったり、屈伸運動をしたりすると、風はたちまち逃げ出してしまう。
だから男が少しの寒気も感じないように、こっそりと仲間を呼び込んでいく。
しばらく経つと男は
「足から冷えて来た。」
と思い太ももをさする。
その時にはすでに、体の中に充満した風が徒党を組んで、体の中を駆け回っているのだ。
そうなるともう、ちょっとの抵抗では追い出すことができない。
鼻によじ登ってくしゃみを出させたり、耳をどうしようもない程かじかませたり、
ひどいときには腹を下すことだってある。

そんな経験を何度もしている彼は、風が吹くたびに体をゆする。
一人では何もできない万病の元を、逐一追い出しているのだ。
その慣れきった動きは、彼の注意を月から少しもそらすことはなかった。

彼の意識は、彼自身の動きでなく、月の背景である夜空によって散らされた。
「夜空はきっと滑らかな手触りなんだろう。」
目の下に広がる影絵と見比べながら、男は思った。
ここ一体の家々は白い壁が目立って多かった。
秋の日差しを浴びて一面に照り映えると、すっとした心地よさを感じさせるが、
街灯の周りに現れる隠しきれないモルタルの質感は、品の無さを感じさせた。
質の悪い画用紙のようにざらざらした黒であった。
汚れてしまった目に点眼でもするかのように、男は細めてしまった目を大きく開き、空を見上げた。

先ほどの滑らかさを失わずに男を待っていた夜空が、男を包んでみせた。
地べたの影絵と見比べて初めて、男はその美しさに気づくことができた。
宵闇に浮かんでいた、青やオレンジなどの鮮やかな色相すら取り除かれた、真黒い空だった。
そこに浮かぶ星には質感を感じなかった。
熱いか冷たいか、硬いのか柔らかいのか、それすらも分からなかった。
滑らかな布の上に描かれた模様に過ぎなかった。
粉砂糖を振り撒いたような星々は、空の黒さを一層際立たせていた。
「腕をいっぱいに広げて両端をつまんだら、夜空に襞が寄るだろうか。」
星はその襞に埋もれて消えてしまうだろうと男は思った。
それほど惜しい物でもなかった。

背景である空の美しさに見惚れた男は、月を夜空に見劣りするものと感じた。
月は今や空に映った一つの街灯に過ぎなかった。
しかも輝きが強いため、影を切り抜くどころか、円形の周りに光を滲ませてしまっていた。
それは画用紙に垂れてしまった一滴の絵の具であったり、
弾痕によってひび割れた窓ガラスのような不恰好さの印象を与えていた。

思わず、
「月が邪魔になってきたな。」
とつぶやくと、月が顔をしかめた気がした。
月は段々とその大きさを増していった。
それは膨らんでいると言うよりも、男に向かって威嚇しているようだった。
月に悪口を聞かれてしまったと気づいた男はたじろいだ。
「取り繕っても仕方がない。月はすべてお見通しなんだから。」
開き直った男は月に向かって叫んだ。
「お前が邪魔だと言っているんだ!」

ふいに、月が男を飲み込もうとした。
ぐんぐん近づいてくる月に向かい、男は負けじと口を大きくあけた。
すると月は男に飲み込まれてしまった。


それからの夜は少しだけ暗くなった。
男は毎晩屋根に登っては、視界いっぱいに広がる夜空を楽しむことができた。
街灯がたくさんあるので町に住む誰も困ることはなかった。
男も生活に不便はなかったが、月の満ち欠けによって時おり腹の中がちくちくと痛むのだった。


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