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短編小説 椅子(2)

ボブの家は街の外れにあった。市街地をやっと見渡せる程度の小さな山を所有しており、その麓に家を建てさせたのだ。
職場やら馴染みの店やらは市街地に密集していたが、歩いて30分足らずで行くことができたため、彼は住み良さに重きを置いたのだった。
日頃から散歩を趣味としている彼には、目的地までの時間も楽しみの一つであった。
昨日よりもいっそう緑の色を深めた木々を眺めながら、市街地までの下り坂を降りて行った。
道端の草から白い蝶が飛び立ちボブの周囲をひらひらと彷徨うと、道の反対側へ渡って行った。
そして背の高い草を見つけると、そこに止まって羽を休めた。

ふいにボブの足が重さを感じはじめた。
「そういえば今日は朝から一度も座っていない。いつもより少し歩くのが辛いようだ。」
心は早く街へ行きたいと焦り、足は下り坂の力をかりてどんどん前に進んでいく。
ボブは理性によって歩を緩めながら、帰りの上り坂を思ってため息をついた。

大通りにたどり着くと、年老いた男性が壁にもたれて座っていた。
見たところ綺麗なコートを着込んでおり、裕福な部類の人物に見えた。
「具合でも悪いのですか?」ボブは話しかける。
「いえいえ、そんなことはありません。散歩の途中に休憩をしているだけだよ。」
「でも道端で座ってなどいたら、皆さんから心配されますよ。」
「そんなことはないでしょう。どうして私だけが心配されるのですか。」

ボブは驚いて周囲を見渡した。
大通りに沿う形で人々が地面に座り込んでいた。
スーツを着込んだ役所勤め風の男や、若い男女のカップル、人の良さそうな婦人までが座り込んでいる。
ハンカチや昨日の新聞などを地面に敷き、めいめいが人通りを妨げぬよう道の端に陣取っている。
一応の秩序はあるようだ。

「どうしてベンチに座らないんですか?」先程の男性に訪ねた。
「座ろうにも、ベンチがどこにもないのですからね。」
ボブは驚いた。
「確かにこの通りは人通りの割にベンチが少ないですが、全くないということはなかったはずです。」
「昨日まではそうでした。でもどこにもないんですよ。役所に尋ねてみましたが、撤去の指示など出していないと言うんです。
 もう皆さんあきらめて、道に座り出しましたよ。」
「休みたいのならカフェにでも入ればいいではないですか。」
「それが、ほとんどのお店が休業しているんです。私の家もそうですが、どの店も家も窓ガラスが破られて、
 そうでなくても椅子が盗み出されているんですよ。とても営業できる状態ではないそうです。」
ボブは開いた口が塞がらなかった。自分の家と同じことが町中で起こっている。
「あなたもお座りになるのなら、教会の階段がおすすめですよ。上の段が背もたれになりますからね。」
ボブは苦笑いで受け流した。この様子では自分の目的が果たせるか怪しいものだぞ、と思いながら男性に別れを告げた。



床屋のニックは煙草をふかし、煙ともため息ともつかないものを繰り返し吐き出していた。
多分に漏れずこの店でもガラスが破られ、椅子が運び出されていた。
ニックはいつもより幾分広くなった店内を眺めて呆然とした。
店外に散らばったガラスを掃き集めて店に戻り、一息つこうにも椅子がないため、壁にもたれて煙草をふかしていた。
今日は予約が入っていなかったが、この辺りでは飛び込みの客が多いため、店を開けていた。
木製の薄いドアを勢いよく開けて、ボブが入ってきた。

「やあニック、やはりここも椅子がないのかい?」
短くなった煙草を消すと、ニックはボブに向き直った。
「その通りだよ。今日は店を閉めちまおうかと思ってるところだ。」
「ちょうどよかった。閉める前に一仕事してくれよ。俺の髪を整えて、髭を剃ってくれないか。」
そう話すボブは自然と口角が上がっていた。
彼の機嫌を直す特効薬とは散髪だった。
ニックは腕が良く、髪の毛も注文通りにすることができる上、自分の言葉が足りない部分も汲み取って髪型をより見栄えのするものに仕上げてくれる。
また剃刀で髭を剃ることにかけても間違いがなく、自分でするよりもずっと滑らかに、そして痛みもなく終えてくれるのであった。

洗面台に前屈みになったボブの頭を洗い、ケープを被せたところまではよかった。
「はて・・・。どうしたものかな。」
ニックは右手に鋏を持ち、空いた手を顎にやり、考える風だった。
ボブはニックよりも背が高く、今は上から眺めることができないのだった。
「ボブ、申し訳ないが床に跪いてはくれないか。」
「仕方ないだろう。男に向かって跪き、しかも背を向けるなんて、懲罰か何かのようだな。」
冗談を飛ばしながらもボブは言う通りにした。
髪を切られている自分の姿が鏡に映らないことが、ボブに小さな不安をもたらした。
「これがニックでなければ、時々立ち上がって出来栄えを確かめていたことだろう。」
しかしボブの考えとは裏腹に、まもなく彼は立ち上がらるを得なくなった。
「ニック、足が痺れてきたぞ。すまんが一度立たせてくれ。」
よろよろと立ち上がり屈伸運動をすると、足の痺れを完全には取り払えないまま、ボブは再び跪いた。
「ニック、いつもより早く仕上げてくれ。少しくらい出来が悪くても文句は言わないよ。」
ゆったりとして落ち着いた時間であるはずの散髪が、いつの間にか我慢大会と化していた。

ニックもボブの要望に応え、できるだけ早く髪を切り終えた。
いつもより少しいびつな出来だったが、ボブから文句はでなかった。
彼の足はすっかり痺れ、立ち上がる際にふらふらとよろめいてしまうほどだった。
また彼の縦にも横にも長い楕円形の体を支えた代償として、彼の膝は痛みが現れていた。
ただこの状態から解放してくれたニックに感謝の気持ちが湧いてくるのみであった。
「髭剃りはどうしようか?この分だと洗面台に仰向けに倒れてもらうか、床に寝転がってもらうかだが……。」
「いや、今日はもうやめておこう。体がもたないし、自分の髪が散らばった床に寝転がるのもごめんだ。」
そう言うとボブは散髪分の代金を払い、ニックに礼を述べて店を後にした。

時計を見ると、20分しか経っていない。
「1時間以上かけてゆっくりとやってもらうのがいいんだがなあ。しかしあの早さでも十分な出来栄えにできるものなんだな。」
ボブは感心しながら帰路についた。しかし肝心の目的である自分への機嫌取りは果たせなかった。
そのためボブが家に着いた時に、昼食どきだと言うのに朝食の皿を下げ忘れていたピエールに対して、
不満をあらわにする自分を抑えることはできなかったのであった。

ニックは再び煙草に火をつけ、再び広くなった店内を見回しながらつぶやいた。
「20分でいつもの半分の料金がもらえたということになるな。
 椅子が店に戻ったら、20分で仕上げる格安コースを設けてみようかな。
 早くて安ければ、余程の失敗でない限り文句も言われないだろう。」

続く

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