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短編小説 椅子(完結)

車が通れない道に差し掛かり、途中からは歩くことになった。
勾配のゆるやかな山であるため、二人にとっては散歩道とさほど変わりはなかった。
自分でここに来ることを選んでおきながら、ボブは椅子の山がまだ写真の中の出来事に思えてならなかった。
まもなくたどり着くはずであるそれに対して、息を切らして駆け寄っていく気持ちを持ち合わせていなかった。

突然、硬い物同士がぶつかる激しい音がして、ボブは足元から目を上げた。
「椅子の山が崩れる音に違いない。」
二人は坂を駆け上った。
頭の中に焼きついた平面のモノクロ画が、耳からの刺激によって厚みを帯びるのを感じた。
ボブの足を急がせた、その画に色をつけたいという衝動は、
線画とクレヨンを与えられた幼児が感じるような純粋な疼きであった。

坂が終わり、視界が開けると同時に、目の前に椅子の山が現れた。
新聞紙から飛び出てきたかのように写真で見たそのままであったが、
その質量と高さを目の前にしたボブはもう写真のことを忘れていた。
木や鉄の細かい骨組みが積み上がってうず高く聳えている椅子は、巨大な生物のような恐怖をボブに与えた。
「あっ!」
短く叫んだピエールの指差す先に、ボブの椅子があった。
「やはり私の椅子はここにあったのか。泥棒め、一体なんの目的でこんなことを……」
言い終わらぬうちに、衝突音が声をかき消した。
ボブとピエールは驚いて椅子の山から飛び退き、夢中で駆け出した。
同時に、彼らの頭上を飛び去る大きな物が見えた。

それは椅子であった。
逃げる二人と反対に積み上がった椅子に向かって一直線に飛んでいき、椅子の山にぶつかって大きな音を立てた。
山は崩れるでもなく揺らぐでもなく、新たな椅子を受け入れた。
そしてまた静寂が訪れた。

二人は椅子を眺めながら持ち帰るべきかどうか話し合った。
そうしている間にも彼らの背後、シュライブ市の方から椅子が飛んできては山の一部となっていった。

定刻通りに迎えにきたタクシーは、トランクを空にしたまま二人を運んで行った。
「今のままでは椅子を持ち帰ったところで、また勝手に飛んでいってしまうだろう。」
無数の椅子に埋もれていく思い出の椅子を思って、ボブは祈りを捧げた。

それからボブは所有している山を売り払い、ピエールを連れて街を去った。
彼はできるだけあの魔の山から離れた場所へ引っ越そうと努めた。
このまま人々が椅子を奪われ続ければ、椅子がないことだけが売りであるあの街の観光が衰退することは目に見えているし、
もしも椅子が返ってきたとしても、結局元の何もない街に戻るだけだと分かっている。
質より量に舵を切った彼の商売も、その煽りを食うことは火を見るよりも明らかだ。
彼は周囲にそう説明した。
周囲は彼が十分な蓄えを持っていることを知っていたため、その理由に首を傾げた。

居を移してからしばらくが経ち、ボブの商売も再び軌道に乗ってきたある時、
ロッキングチェアに揺られながらコーヒーを飲み、彼はピエールに打ち明けた。
「あの街に暮らしていれば、お気に入りの椅子はいつか返って来たかもしれないし、無ければ無いでなんとかなることも分かった。
だけど、私の大好きなゆったりとした質の高い時間は、あの街には二度と戻ってこないんだよ。」

(了)

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