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短編小説 逃げ水

 一
 また、ぐっしょりと汗をかいてしまった。背中にへばりついたシャツを引き連れたまま、正明は浴室へ向かった。体を覆っている汗と、寝起きの気だるさをぬるま湯で洗い流した。
 少し湿ったままの頭でベランダへ出ると、外は明るくなり始めていた。空に映る水色や紫やピンクと、大きな黒い一かたまりとなったままの街との対照は、刷りかけの色版画だった。
 消え残った星々を吸い込むようにして、太陽は徐々に輝きを強めていった。正明が朝食を終え、仕度を済ませる頃には、夜空の輝きは一箇所に詰め込まれ、色鮮やかな世界が完成していた。
 夜から暑さが続いていた。空から降る陽の光だけでなく、アスファルトからも熱が上ってくるのを正明は感じていた。
 先ほど洗いながした気だるさとはまた違い、意識が外側からぼやけていくような感覚だった。しかしその中で一つの思考だけは正明の中心で輪郭を保っていた。
 正明はK公園で休息を取ることにした。昼までにはまだ少し時間があり、それまでのぼせた頭で日向にい続けることは到底できなかった。
 大きなイチョウの木の下で腰をかけた。空からの日光は夥しい数の葉によって細かく砕かれていた。降り注ぐその速度が遅くなったようだった。足元からの熱も湿り気のある土に吸い込まれていた。
 正明は、ほっと一息をつき、ふと上を向いた。青空もまた細かくちぎられ、枝葉を透かして見る空は先ほどより遠くに見えた。
 今が秋であったならあの空はもっと遠かっただろうか、と正明は考えた。先ほどまでまとわりついていた暑さもそこには存在していないように思われた。
 空の上も地の下も、暑さ寒さの届かない心地のよい場所だったら良い。そう思った。
 気がつくと太陽は天高く昇り、真昼となっていた。正明は腰を上げ、再び歩き出した。
 K公園を反対側の出口からでた。そこは南に面していて、この時間は日当たりが特に強い場所だった。
 公園を出てすぐ、見晴らしの良い通りへ出た。こちら側はあまり栄えていない。正明はまっすぐ進んでいった。
 遮るものの少ない通りだけに、太陽に真正面から向かっていく形になった。歩けども姿形を変えない太陽は、正明を見守るようであり、冷笑しているかのようでもあった。
 数十分歩いたところで、正明は足を止めた。人通りはおろか、車も滅多に通らない道へ出ていた。田畑の緑をかき分けるように灰色の道がまっすぐ伸びていた。その道は真っ青な空によって塗りつぶされ、途絶えていた。
 正明はその継ぎ目を見つめていた。道が途切れる少し手前に、逃げ水が見えた。田畑の緑と道自体の灰色、そして空の青を混ぜ合わせ、妖しい輝きを含みながら揺れ動いている。
 正明はその触れ得ない水溜に向かい、呼びかけた。 
 すると水面から何かが浮かび上がってきた。それは麦わら帽子だった。実在していないとはいえ、先ほどまで水溜りの中にあったはずなのに、夏の日差しとぬるい風を吸い込んでなお、帽子は乾いていた。爽やかだった。
 その帽子のつばが水面から離れても、帽子は垂直に上昇を続けていた。黒い髪が見えたかと思うと、やがて女性の顔が現れた。大きくはないが形の良い目と、小さく存在感のない鼻、こころもち両端を上げた口が見えた。紛れもなく良子であった。
 正明は良子に近づいていき、良子に話しかけた。
「ここにくる途中に大きな公園があったんだ。イチョウの木の下でゆっくりしよう。」
 幻から出てきたと思えないほど、良子がそこにいることにしっかりとした実感がある。足元の逃げ水から離れた。
良子も抵抗することなく、正明を見つめたまま、素直についてきた。
 初めはぬかるみの中を歩くように足が重そうだったが、すぐに軽やかな足取りに変わった。歩くたびに上身が上下に揺れる、ゆったりとした良子の歩き方が正明は好きだった。正明はその緩やかなリズムを横目に見ながら、黙って歩いた。
 話したいことは頭の中に沢山浮かんでくるが、堰を切ったように話し出してしまう時の正明を、良子があまり好いていないことも分かっている。
 ふと、後ろから音がした。むうっとした空気を小刻みに叩きながら、オートバイがゆっくり迫ってきた。良子が気づかずに車道を歩いているので、思わず正明は腕を引こうとした。良子の声が聞こえた気がした。
 正明は公園にいた。先ほどまで腰掛けていたイチョウの下に寝そべっていた。事もなげに立ち上がると、
「うっかりしたな。」
とつぶやき、帰途へと着いた。
         
 二
 次の日も、相変わらず正明の寝覚めは湿っていた。その日は雨が降っていた。正明は深くため息をついた。すぐに体を洗いたいが、今日の用事は消えたも同然だ。急ぐ理由を失うと、正明は再び横になった。
 良子を失ってもう三年になる。はじめはたやすく受け入れることができなかった。海水浴に良子を見送ったその日から、正明は良子と会うことができなかった。日常からふっと消えたことで、悲しみはなかった。
 良子がお気に入りの目覚まし時計を投げつけた後に、友人宅へ二、三日泊まってきたことがあった。その後のように申し訳なさそうに、少しはにかみながら玄関に立っている日がまた来るだろう。全く根拠はないながら、そう思っていた。
 そして良子は帰ってきた。だがそこは玄関ではなく、道路にきらめく逃げ水の上だった。思わず正明は踊るように駆け寄り、抱こうとした。両腕の内側が良子を捉える前に、正明の意識は遠のいていった。気がつくとベッドの上だった。暑さにあてられて良子の幻を見たのか。そうも考えたが頭は軽く、体調はいたって穏やかだ。正明はふたたびK公園の奥へ行ってみることにした。
 良子はそこにいた。うねりを描いている周りの暑気を震わせる自動車も、その隙間を見計らって道を横切る猫も良子に触れることはできないようだ。並の状態でないことは理解ができた。あまり近くに良子を感じてしまうと、先刻と同じことを繰り返してしまいそうで、表情が見えるか見えないかの距離で立ち止まった。
「おかえり。」
自分の声が震えていた。その時初めて指先も震えていることに気がついた。日盛りの中ではあったが、足元から上ってくる涼しさがあった。
 良子は穏やかに微笑んだ。声は届いている。
「どこから帰ってきたんだ。」
 良子は困った顔をした。自分でも理解できていないのだろうか。
「声を聞かせてくれないか。」
良子は首を振った。声を出すことができないらしい。それならばと身振り手振りで会話をしようと試みたが、それすらも応えてはくれない。正明はたじろいだが、どうやら歩くことはできるらしい。それからは人気の少ない公園をただ歩いたり、池のほとりに腰掛け、池水と良子と、それから水面に映る良子をただ眺めたりして過ごした。良子はいつもいつの間にか姿を消してしまうが、また次の日には同じ場所で会うことができた。それはとても心地よいものだった。
 暑さが少し落ち着きを見せ、木々がまだ鮮やかな緑を保っている季節に、逃げ水が見えなくなると、良子は現れなくなる。最初の夏は正明もひどく狼狽した。別世界との扉が永遠に閉ざされたと感じた。しかし次の夏、良子は何事もなかったかのようにそこに立っていた。いつかの玄関のようなはにかみは持っていない。
 今年は四度目の夏になる。良子のいる夏にも慣れ始めていた。初めは冬にもなんとなく様子を伺いに行った逃げ水の道も、ここ数年は用もなく通るようなことはしていない。
 隣家の庭に背の高い木があった。毎日見ていると今更関心を惹くこともなかったが、よくよく見るとK公園のイチョウとは違うようだ。夏の日差しをたっぷり浴びて枝葉の隅々まで漲っている緑が、強い雨で流れそうに思った。外出を諦めた正明は、快晴続きにもかかわらず溜まっていた洗濯物を片付けることにした。洗濯日和ではないが、よく晴れた日は早く良子に会いに行きたくなってしまうのだ。背の高い木の名を調べようと思いながら、家事をしている間に忘れてしまった。


 三
 次の日はよく晴れていた。隣家のご夫人が家族の洗濯物を物干し竿にかけている最中だった。正明も部屋干しの生乾きを日光に当てようとベランダに移した。庭の木は雨に洗われ、かえってその緑を強めていた。正明はあの道へ向かった。今日も逃げ水が青空をアスファルトに滲ませていた。
 良子は呼びかけるとすぐに出てきた。形のいい目を細めながらにっこりと笑っている。
 「今日は港の方まで歩いてみようか。」
正明が声をかけたが良子は動こうとしない。何か気に触ることでもあるのだろうか。良子はじっと足元を見つめていた。
 すると良子の足が水面に沈み始めた。正明は驚いたものの、出てきたところに戻るだけだと思い直し、良子の足元を見つめていた。
 異変に気づくまで30秒ほどだったろうか。どうも水面が近い。正明は自身の足元に初めて目をやると、もう膝頭まで逃げ水の中へ浸かっていた。川や湖水のような冷たさは感じなかった。暑さもなかった。正明は念のため息を深く吸いこんだ。
 頭まですっぽり逃げ水の中へ入ってしまうと、息苦しさはまるでなかった。先ほどまでいた小道が頭上に浮かんでいる。良子が地面近くでゆったりと浮かんでいた。先ほどと変わらない微笑で彼を見下ろしている。正明は平泳ぎの要領で良子に近づいた。
「はじめからこうすればよかったのね。」
 絹と絹が擦れるような良子の声が聞こえた。正明は驚いて声を出した。呼吸も発声も地上と変わらずできるようだ。正明は良子を抱きしめた。今度の夢は覚めない。
「君に触れられるということは、僕も君のいる世界へ来てしまったということかな。」
「その通り。でも戻れない訳じゃないのよ。私は出ていけないけれど、あなたはあの逃げ水からいつでも出入りできるわ。私はそんなに意地悪じゃないから。」
 正明は考えた。良子の言葉を信じると夏の終わりまでにここを出て行く必要がある。もし秋までに出損ねたらどうしよう。
 しかしそんなことはすぐに打ち消した。その時はその時だ。今年は雨の日にも良子といられる。その思いで胸がいっぱいだった。
 今日の逃げ水は夕暮れと共に消えた。アスファルトは本来の硬さを取り戻した。正明もそれを見ていた。
黒く大きな影となったそれは、固く閉ざされた門のように思われた。
隣家の木の名前が今更気にかかった。

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