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ひとのこころの珍妙さ/『恐怖の正体』感想
『恐怖の正体 トラウマ・恐怖症からホラーまで』(春日武彦著)という本を読んだ。
精神科医でもある著者が、その経験や知識から、「恐怖」をさまざまな切り口で考察している。
恐怖症、娯楽としての恐怖、グロテスク、死など、恐怖にまつわるさまざまなトピックをとりあげる。
読んでわかったのだが、本書では「恐怖の正体」について一貫した結論があって、それをいろいろなトピックに当てはめるといった感じではなく、かなり散逸的にそれぞれを深掘りしている。
そこは少し期待外れだった。
ただそれはそれとして面白く、なるほどと膝を打ったり、思わず考えさせられるところも多かったので、何ヶ所かピックアップして所感を述べたい。
恐怖の定義
本書のタイトルにもある「恐怖の正体」に最もよく迫っている箇所はおそらくこの「恐怖の定義」の部分である。
①危機感②不条理感③精神的視野狭窄
これら三つが組み合わされることによって立ち上がる圧倒的な感情が、恐怖という体験を形づくる。
なるほど確かに、幾らかの説得力はありそうである。
街中でばったりゾンビに出くわしたら、命を狙われる危機感(①)はもちろん、なんで自分がこんな目に、という不条理感(②)や、体の動きがはたと止まって、じっと釘付けになる精神的視野狭窄(③)も起こるだろう。
ただ、やや曖昧さが残っている気がしないでもない。
特に、著者は①〜③の3つの要素が発生する順番にあまりはっきり触れていないが、かなり重要な側面だと思う。
私見だが、この中で一番早く発生するのは②、不条理感では無いか。
これはいわば危険のアンテナのような役割をする。危険なもの、不自然なものを感じ取って、①の危機感を立ち上がらせる。意識を集中してそれに対処しようとするため、③の精神的視野狭窄が発生する。
ここまででは単なる防衛反応のプロセスのようだが、恐怖が厄介なのは、③の視野狭窄がさらに①の危機感を強める悪循環に陥ることだ。
その対象に対して、逃げる、戦うといった明確な対策が取れない場合、恐怖はひとりでに増大する。
この「悪循環」は、恐怖を感じている最中の状態の描写として、感覚的に腑に落ちる。
本書にもこのようにある。
おろおろ浮き足だった状態と精神的な視野狭窄状態は、互いに悪循環のループを形づくっていよいよ恐怖の感情を膨らませていくのである。
恐怖症
高所恐怖症の項に、こんな記述があった。
馬鹿げて聞こえるかもしれないけれど、彼らは魅入られたかのように虚空に足を踏み出してしまわないか(中略)、「魔が差して」うっかり身を投げてしまわないか、気の迷いからおかしな位置に移動して事故だか自業自得なのか不詳のまま落下してしまわないか、と心の底で危ぶんでいるようでもあるのだ。
これにはかなり感心した。
全ての恐怖症に通ずる非常に重要なメカニズムではないかと思われる。
恐怖症とはつまり、恐怖する必要の無いものに恐怖してしまうという状態で、なぜそうなるのかというと、自分や物事への不信感が根底にあるのでは、ということである。
さらにいえば、恐怖症の人ほど、その対象に潜在的に興味があるという傾向もここに通じるのではないか。
深層心理では「身を投げてみたい」「落下したい」と思っていて、それゆえに自分の冷静な判断を頼りにできず、必要以上にストッパーがかかっている、という具合である。
僕自身、海の巨大生物、特にクジラや大型のクラゲ、アンコウなどを見るのが苦手で、おそらく若干の恐怖症なのだが、同時にそういった存在に神秘性、畏怖の感覚を抱いている節もある。
ただ、これだけでは完全に説明がつかないのが恐怖症の厄介なところである。そもそも、クジラに潜在的に興味があるからといって、すこしぼうっとしている間にふらふらと海の真ん中に泳いで行ってしまうことはありえない。
著者は、恐怖症となるような人たちは普段から不安や屈託を抱えており、それらを何か具体的な事象に託して楽になりたいのではと考察している。人間の心はどこまでも複雑だ。
恐怖症は、所詮は「恐怖もどき」でしかない。が、そのような奇妙なものが存在した方が結果的には人生をよりリアルに過ごせる場合もあるようなのだ。そこに人の心の妙味がある。
グロテスク
筆者がグロテスクを語るにあたって持ち出した「認定要素」が三つあるのだが、その三つ目が面白い。
③その異質さは、ときに滑稽さという文脈でしか受け入れられない。
グロテスクと滑稽さは、切っても切れない関係にあるように思う。特に、いわゆるスプラッタ映画の類は、こぞってどこか滑稽に映る。
思うに、この滑稽さは「動機の適当さ」からきているのではないだろうか。
グロテスクなものは、なんらかの意味で度を超えている、あるいは理解できない。
それゆえ、それを行った張本人は(それはいわゆる猟奇殺人犯とかだけでなく、スプラッタ映画の監督や、現実の事故なら"運命"も)、必要に駆られてではなく、自分がやりたくてやったようにしか思えない。そこに真剣さはなく、適当な動機が透けて見えるように感じる。
そんな感覚が、悪い冗談を聞かされたような決まりの悪さを生むのではないか。
グロテスクなものは傍若無人で横柄だ。わたしたちの心を不意打ちのように襲い、じわじわと蝕んでも平然としている。それは引き攣ったような笑いと親和性が高いだろう。
娯楽としての恐怖
最後に、この本の「娯楽としての恐怖」の章は、正直に言ってあまり読み応えがなかった。恐怖を楽しむことが出来る人間の複雑な有りように、あまり迫れていない感じがしたからだ。
このあたりの話はむしろ、以前読んだ『恐怖の構造』(平山夢明著)が詳しかったので、近々再読したい。調べてみて驚いたが、その本の最後には、この記事で紹介した『恐怖の正体』の著者春日武彦氏との対談が収録されていたらしい。
なかなか狭いコミュニティだ。
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