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蜃気楼と陽炎

明確に自分自身が変わったと思う。コンスタントに自分について書いていると、どこかで急に腑に落ちたり、視界が澄んでいくことがはっきりとわかるようになった。そしてまた突然迷う。出して入れての繰り返し。うまくいかなかったらまた溜めて出していく。少しずつ脱皮を繰り返して大きくなっていく。止まることは悪いことではない。ただし必ず再開する。戻ってきて続けて行くことが大事。

わたしでよかったんだと思うことが増えた。こうなりたいとか色々思って悩んだりもっとこうだったらって考えてたし、今もこれからも考えると思うけど、それでもわたしなりの大切にしてることがある。関わってきた人が大きくあるけど、去年から見てきたことに比重が結構ある。撮ることに呪われていた人も、春が来るのを待っている人もいる。自分は暗い海の中に沈んでいるからこそ作る意味があると思っていたけど、舵を取れるようになってきたからこそもう少し気負わずに流れていてもいいのかもしれない。嘘をつかなければいい。信じていればいい。不必要な傷からは逃げてもいい。素直でいること。どんな気持ちも一度受け止めること。

何度か「伝えることを面倒くさがっていないか」と言われたことがある。話すことも書くことも詳細を省いてまとめてしまう癖がある。その内訳が伝わらずに、わかりづらさを生み出しているのかもと思い始めた。感覚的でしか伝えられていない。自分でしか読めないメモみたいに。

「信用しているけど信用していない」と言った時、悲しそうな顔をさせた。あなたの感じ方とか言葉とか、いろんなことを信用しているけれど、それがすべてではないし、それを自分の言葉としてそのまま噛み砕かず鵜呑みにして誰かに渡すことはしないよ、という意味だったのだけれど、信用していないと言う言葉が悲しかったのだと思う。多分今までもそうだった。わかってくれる人に甘えて、つまりそれはこういうこと?とまとめ役を頼んでいた。あとそのわからなさが変な魅力になっている部分もあるのかなと思う。詳細を面倒に思わないことが今の課題。幸いにも聞いてくれる人はいる。

毎日日記を書いているのが性格にあっている。誰かが見る可能性があることで傷つけるような言葉を抑えられるし、善悪の判断をきちんとつけることができる。なにより、その日だけしか覚えていられないような些細なことを写真を撮るのと同じ感覚で残せることがいいのかもしれない。毎日新しいことがあって、忘れてしまったことたちを自分で取り戻せにいける。言葉にとらわれずになるべくラフに。自分で自分の変化に気づく。


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