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ひとりきりの雪国 1


仕事でどうしたって消せないほど腹が立ったことがあった。
どうにもむしゃくしゃして、ひとりになりたかった。

そうしてわたしは初めて一人旅をすることを決めた。
12月29日から一晩。場所は長野、善光寺に歩いて行ける宿。
目的は場所ではないから、休めるあたたかい宿から決めることはおかしいことではなかった。
長野は軽井沢に家族と行ったことがあるだけで、他の場所はなにも知らない。
「牛に引かれて善光寺参り」という言葉が頭に浮かぶ。
お寺の前は大きな通りがあるのだとぼんやりと想像した。
調べていくと、冬の長野は豪雪で足元が悪いらしい。
持っている靴では不安だったけど、トレッキングシューズを選んだ。
東京からは雪国の寒さは想像できなくて、トレーナーとフリースをリュックにつめこんだ。

29日の早朝、池袋から出るバスに乗り込む。
こういうバスは初めてだった。
3列シートは意外と広くて、となりの人と横にならないように互い違いになっていた。
前の女の人はヒールのブーツを履いて、ちいさなカバンを1つ抱えていた。
丸くなるほど着込んだ自分が間違えているような気さえした。
コンビニで買ったパンを朝ごはんにして、ぬるいミルクティーを片手にゆっくりと眠りにつく。
お昼すぎ、ふと起きると窓の外は白かった。
わたしはその冬、はじめて雪を見た。
知らないバス停で降りていく人、乗ってくる人をしばらく眺めていた。

14時ごろ、終点の長野駅前に到着。
雪はやんで、足元にはアスファルトが見えていた。
お腹が空いたから駅ビルの中に入ったけれど、どこも並んでいて地下でおやきと日本酒ソフトクリームを買ってベンチに座った。
いろんな友達がおいしい食べものを教えてくれて、知らない土地にいながらすこし安心できた。

駅のロッカーにリュックをあずけて、ホテルの他に唯一調べていた「久米路峡」に向かうためにバスに乗った。
わたし以外にだれも乗っていないバスは、どんどん山へ向かって行った。
トンネルに入る手前にあるちいさなバス停がそこだった。
調べた橋は、紅葉がきれいな観光地という写真ばかりだったけれど、実際に来てみると誰もいない目的地ではないようなところだった。
着いた途端に雪は深くなり、目の前が真っ白になってしまった。
トンネルに進む道の横に小さな路地がある。
工事の途中のように積み重ねられた石の山がいくつかあって、その奥に低い山があった。
遭難しそうになりながら細い道を登って頂上から見渡すと、小さな橋が見えた。
降りて向かうと、なんてことはない、みじかい石橋。
先に道は続いていたけど、次のバスを逃すと40分先になってしまう。
どんどん視界は白んでいく一方で、寒さに耐えられる自信がなかった。
バス停の前にある家でおじいさんが焚火をしているのを見ながら、遅れているバスがトンネルの中から出てくるのを待った。
バスの中で、どんどん水場から離れていくのを見ながら、なんだか夢の中にいた気がした。
旅の中で久米路峡を知っている人はいなかった。

駅に戻るころには凍えたからだはいつも通りの体温になっていた。
チェックインまでまだ時間があったから喫茶店に入る。
フジのX100Fを首から下げていたら、フィルムですか、と店員のお兄さんに話しかけられた。
デジタルです、と申し訳なさそうに伝えると、かっこいいですねと笑ってくれた。

駅から15分くらい歩いたところに宿はあった。
大通りから一本わきに入った道。
白くなった看板に書いてある名前ををしっかり確認してとびらを開けた。
中はあたたかくて、目がくりっとした女性が迎え入れてくれた。
大きな木目長のテーブルに通され、宿のこまかな説明をしてくれる。
寝室は2階で、男女共用と女性専用の2部屋。
わたしは女性専用の入り口に近い二段ベッドの下側を借りた。
寝る場所の奥に荷物を置く場所もある。
カーテンで仕切られた、一晩だけのわたしの基地。
一人になるにはじゅうぶんだった。

なにをしにきたんですか、と尋ねられて、一人になりたかったからとは言えなかった。
特に決めていなくて、と言いよどむと女性はテーブルの向かいに座って地図を広げた。
彼女は1年前に長野に引っ越してきてここでアルバイトをしているのだそう。
年末だからやっているところは少ないかもしれないけど、といくつかおいしいご飯屋さんにまるをして渡してくれた。
宿のお風呂はシャワーだから、近くの銭湯であったまってから帰ってくるといいですよ、と言われて、お風呂セットを持って長野の街に出かけた。

もらった地図を見ながら向かったのは信州そばのお店。
1階のカウンターに通される。
隣にはサラリーマン二人組。日本酒を飲み交わして楽しそう。
わたしはおそばとおばんざいのセットを注文した。
としを越すにはまだ早い、年越しそば。
おいしい。夜ご飯を食べて、やっとここまで来たことへの達成感があった。
一人なのがすこし居心地が悪くて、そそくさとお店をあとにした。
また雪が降っていた。長野の夜は冷える。
だんだんと厚みを増す地面にこのくつでは頼りなかった。

時間は21時前。
宿に戻るにはすこしものたりない。
戻る途中にビールバーがあって覗いてみたけれど、賑やかな様子で入りづらくて通り過ぎてしまった。
マス目状になった道は、暗さと雪でどこなのかわからない。
吹雪のなかフードをかぶって歩いていると、あるお店が目に入った。
看板に書かれたたくさんのビールの名前。
ここもバーなんだ。お客さんはひとり。
しばらく立っているとお店の中から人が出てきて、中に招き入れられた。
寒いでしょう、と優しく声をかけてくれる。
カウンターに座って、看板の一番上に書いてあるビールを注文した。
長野のひと?ときかれて、東京から今日来て、明日帰りますと伝えた。
柔和な顔立ちをしたお兄さんは、一人旅かあ、そうしたらこのひとに聞きなよ、とふた席隣に座っていた常連客のほうに目配せをした。
その人は常連客で旅行代理店に勤めているそうだ。
写真と一緒に長野のいろんな観光地を見せてくれた。
おすすめは戸隠だから宿に戻ってから調べておくといいと教えてもらった。

ビールはどれもおいしそうだけど全部飲めなくて残念だ、と話していると、長野は水がおいしいから地ビールを飲んでかえりなさいといつの間にか増えた常連客が何杯かおすそわけしてくれた。
ひとりではとうてい飲めない種類を小さなグラスに入れて並べてくれる。
しばらくすると勢いよく入ってきた女性がわたしの横に座った。
フィッシュ&チップスと、苦いビールを、と言いながらばさばさとコートを脱いだ。
その女性は富山から出張できた大人っぽい人で、年上だと思って話していたら年下だとわかってふたりで笑いながら謝った。
わたしがゲストハウスに泊まっていると話すと、個室は気を遣わなくていいからふつうのホテルにすればよかったのにと言われて、確かにそうかもしれないなと思ってすこし後悔した。
22時を過ぎて、あまり遅くなるといけないからと先に店を出た。
もうあたりは道の色がわからないほどまっしろだった。

お店の人に言われた方向に歩くと、小さな銭湯を見つけた。
家族連れが出るのを待って、番頭のおばあちゃんにお金を払う。
せっかくお店であったまったのに、またすっかり冷えてしまった。
中はそんなに広くなくて、洗い場に囲まれた真ん中に湯船がある。
湯船に浸かって壁の富士山を見上げると、男湯と半分こになっていた。
壁の向こう側、天井をつたえば別の空間がある。
肩までお湯につかりながら初めて見る銭湯のかたちをよく観察した。
ふわふわとしあわせな気分で、コーヒー牛乳を飲み干して宿に帰った。

さっき、一緒に地図を広げてくれた女性がキッチンからおかえりなさい、と声をかけてくれた。
ソファでは外国のお客さんが英語で盛り上がっている。
すみっこで紅茶を飲みながら置いてある本を読んでいると、さっきまで英語で話していた外国人がわたしの向かいに座って、明日はどこにいくの、と日本語で話しかけてきた。
びっくりしていると、母国にいた時間より日本で過ごしている時間のが長いからね、と笑った。
そのひとは、長野で外国人向けに観光ガイドをしているらしい。
戸隠のはなしをすると、今の時期はスノーシューをはかないと奥には行けないから難しいかもしれない、と親身に相談に乗ってくれた。
すごくおだやかなやさしい声の持ち主だった。
2階の部屋の前でhave a nice trip、おやすみ、と手を振って別れた。

ベッドに着くと、もう他のカーテンはしまっていてわたしが最後だった。
来た時にはなかったコートが3着かかっていた。
物音を立てないようにカーテンを開ける。
布団の上には湯たんぽが置いてあった。
暖房が付いていなくてもこんなにあたたかいのを初めて知った。
きっと個室のホテルだったら、このあたたかさは知らなかっただろう。
上の段の読書灯がすきまからもれている。
ひとすじのあたたかな光。
長くて、みじかい1日が終わった。


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