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春の史跡巡り(国分寺市篇)その4

REV41

ソフトウエア工房孫風雅です。

ブログ投稿しています。複数画像付き等最終版は此方から、ご覧ください。

感染症も抑えられている感じがしていますので、散歩がてら史跡めぐりをしてみようと思いたちました。

先ずは”国分寺”の史跡が近場では有名なので、国分寺市の史跡巡りから始めてみようかと思います。

尚、史跡だけでなく、色とりどりの可憐なお花も撮影できたらと思います。

先ずは場所を確認する為に、インターネット上の国分寺の史跡情報を確認しました。

以下、インターネットで確認できた、国分寺の史跡名です。

  1. 熊ノ郷遺跡

  2. 恋ヶ窪遺跡

  3. 忠魂碑

  4. 東山道武蔵路跡遺構平面レプリ

  5. 恋ヶ窪東遺跡

  6. 東山道武蔵路跡

  7. 土師堅穴住居跡

  8. 中門跡

  9. 尼寺北方の塚

  10. 武蔵国分寺跡

  11. 恋ヶ窪廃寺後

  12. 日影山

  13. 柄鏡形敷石住居跡

  14. 武蔵国分寺跡(僧寺北東地域)

  15. 金堂跡

  16. 庚申塔

  17. 鐘楼跡

  18. 七重塔跡

  19. 武蔵国分僧寺七重の塔跡

  20. 武蔵国分僧寺七重の塔跡2

  21. 武蔵国分寺跡 参道口

  22. 築地堀跡

  23. 武蔵国分寺僧寺 南門跡

  24. 武蔵国分寺僧寺 南門跡

  25. 武蔵国分寺 経蔵跡

  26. 武蔵国分寺礎石

  27. 講堂跡

  28. 武蔵国分寺金堂跡

  29. 金堂基壇

  30. パークハウス国分寺史跡公園

  31. 青面金剛像

  32. 国分寺のコウヤマキ

  33. 国分寺桜門

  34. 地蔵堂

  35. 武蔵国府中国分寺碑

  36. 旧本多家住宅長屋門

  37. 武蔵国分寺七重塔推定復元模型

  38. 武蔵国分寺跡資料館

  39. お鷹の道遊歩道休息所

  40. 武蔵国分寺公園

  41. 中央鉄道学園記念碑

  42. 殿ヶ谷戸庭園(仮)?(紅葉亭)

  43. 旧岩崎家別邸

  44. 馬頭観音

  45. 小柳九一郎翁頌徳碑

  46. 不動橋・石橋供養塔

  47. 日本の宇宙開発発祥の地 顕彰記念碑

  48. TBD

こうして、国分寺市内の史跡を並べてみると、結構沢山のアイテムがある様です。

今回写真を掲載する史跡アイテムは、アイテムの文字色を青色にしました。

以前、国分寺市の史跡は府中市に比べて新しいものが無いのではとのコメントをした気がしています

そこで、新しい史跡の観点から、古い歴史のものでは無く、新しい部類の国分寺市内の史跡を探してみました。

結果的に、比較的新しいものが複数見つかりましたので、ご紹介したいと思います。

以下は、日本の宇宙開発発祥の地 顕彰記念碑です。(一つ目です)

インターネット上の情報によると、この顕彰記念碑は2006年4月1日に建立されたようです。

17年ほど前の事なので、古い・新しいの中間の様な気もしますが、他の史跡に比べれば、かなり新しい部類と思います。

実はこの記念碑を調べる前に以前から気になるものが国分寺市の通路にありました。

以下、国分寺市の一部通路に設置されている、宇宙開発発祥の地の関連のアイテムです。(当初、以下の最後の一つを掲載するつもりでしたが、確認すると写したアイテムの内容がすべて違う事に気が付きましたので、全て掲載させて頂きます)

元々は、六枚目(イプシロン)しか認識しておらず、本日別なものがあるかもと思いながら、碑の撮影をした後、帰り道で見つけたアイテムを各々写真に収めたのですが、家に帰って翌々眺めてみると、全て情報が違っていました。

これらは、日本が宇宙に向けて開発し発射してきたロケットの種類のハズです。(イプシロン、H-ⅡB、H-ⅡA、J-1、H-Ⅱ、H-Ⅰの順です(開発順は逆だと思いますが…?))

このアイテムを眺めながら、何故、国分寺が宇宙開発発祥の地 なのと思っていましたが、その時は深く考えていませんでしたし、調べてもいませんでした。

今回、史跡巡りを始めたことで、そういえば、国分寺市のあそこに可笑しなもの(イプシロンの写真のアイテム)があったなと思い立ち、今回の調査&史跡巡りに繋がっています。

実は、ある時期、糖質制限されたパンを朝食としていたことがあり、特定のコンビニチェーン店に通って購入していたのですが、一店舗では必要数が揃わず、国分寺市と府中市の同じコンビニメーカを複数、はしごしていた時期があり、その時、国分寺市のそのコンビニ店ヘの通路上で見つけていたアイテムでした。

そこで、国分寺市と宇宙開発とのつながりを調べる為、インターネット上の情報、有名なJAXAのホームページを確認してみました。

すると、驚いた事に、日本の宇宙開発の歴史の中に、”国分寺のペンシルロケット”というページを発見しました。

どうやら、且つて、国分寺市に存在していた新中央工業株式会社の工場跡でペンシルロケットの発射実験が行われていたとの説明を見つけました。

戦後、飛行機などの開発が出来なかった時期から、制限解除となり、ジェット機開発に沢山の方が取り組まれたようですが、この宇宙開発の歴史の中心の方は(東京大学生産技術研究所の糸川英夫博士の模様です)米国での開発動向を留学(?)で察知されており、ジェット機では無く、一歩二歩進んで、ロケット開発に同じ時期に着目されていた様です。

最近、一時期、JAXAが開発した”はやぶさ”の話で盛り上がりましたが、そういったロケット技術の基礎を固めた方が、国分寺市で実験を繰り返していたというのは、初耳でした。

インターネット上には過去のニュース動画などもあり、初のペンシルロケットの実験のみならず、二段ロケットの実験も行い成功されていた様です。(二段ロケットの成功はこのニュースによると1955年の6月29日の模様です。現在から既に70年近く前の事の様です)

その際、人工衛星などが日本は未だ保持できておらず、飛行観測ができない時代であり、垂直に打ち上げるのではなく、水平飛行させる事で実験を行いデータを収集していた様子が確認できます。

厳密には重力の影響が有る為、発射後のスピードが出てきた時点は兎も角、それ以外の、発射直後と地上に落下する前くらいはデータとして?な気が、素人的にはしますが、無いものねだりをしても仕方が無いので、出来る事をしてデータ・実績を重ねていったという事なのだと感じます。

この辺りの先人の考え方は、現代でも、別分野でも、有益だなと講師は感じますが、皆さんは如何思われるでしょうか?

尚、このペンシルロケットでの開発には講師的には調べていた中で、もう一つ外せないエピソードがあります。

それは、ロケット開発という事で、集まった人たちの中で、ある意味、身構えている人たちの中で、唯一、この糸川博士が、1万円(実際は5000円?、但し当時の金額であれば10万円から20万円前後くらいでしょうか?)にも満たない固形燃料型のペンシルロケットを実験で採用する事を決めたという点です。

講師の個人的な見解ですが、ロケット開発というような大事である場合、大きな、或いは、それなりにしっかりした筐体のロケットでの試験を想像しがちでは無いでしょうか?少なくとも講師はその様に先ずは考えてしまうと思います。

どうやら、周りにいた集まった方々も講師の様な感覚だった様ですが、糸川博士のみ、小さな・安い開発に肯定的であり、且つ、だから沢山試験できるだろう?と言ってのけられたようです。そういわれたら、ぐうの音も出ない気がします。正しく且つ論理的な結論でしょう)

要するに、実利的であり、超現実的であり、且つ揺るぎないロケット開発への強い思いが感じられました。また、糸川博士の発想の柔軟さ・柔らかさ・しなやかさ・頭の回転の速さが、凄いなと思いつつ、見習いたいものだなと感じているところです。

皆さんは、温かくなってきたこの頃、お散歩などはされていますでしょうか?

講師の経験が、皆様のお役に立てれば幸いです。

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