ネクタイに見るマナーのあり方

今回は、「ネクタイの着用」という社会的慣習を通じて、社会において何が「マナー」とされるべきなのか、ということを考えてみたいと思います。

最初に自分の見地を申し上げますと、私はネクタイの着用という「マナー」は一刻も早く世の中から消え去るべきだと考えています。
布で首を締め付けることがなぜ他人に対する礼儀を構成するのか建設的な理由は全く見出せませんし(もっとも現代においては建設的な意味のあるマナーのほうが少ないですが)、無益であるどころかネクタイの着用は体に悪影響をもたらすことが研究により明らかとなっています。
2018年にドイツで行われた研究では、ネクタイの着用は頚部の動脈の圧迫に繋がり、脳への血流が7.5%阻害されることが認められています。脳への血流の阻害は健康上の悪影響をもたらす(ドイツの研究でもアルツハイマー病の発生原因となり得ることが指摘されています)ことはもちろん、血中の栄養分が脳に行き渡りづらくなる以上思考力の低下にも繋がります。生産性を第一の行動指標とするべきビジネスの場において思考力の低下は致命的な問題です。
しかし、現代社会ではビジネスの場においてそのような思考力の低下を招く装具の着用を「マナー」として強制しています。科学が発達した現代社会において、科学的な研究をもって健康・ビジネスへの悪影響が認められている装具の着用を強制することが賢明な判断とは到底考えられません。

ここで、なぜこのような事態が現代社会で起きてしまっているのかを考えるにあたり、話題の規模を少し大きくしてそもそもなぜマナーは守らなければならないのかについて考えてみたいと思います。
なぜビジネスの場で取引先や顧客と会うときにはスーツを着用しなければならないのか。
なぜ上座・下座を守らなければならないのか。
なぜ目上の人間に対して正しく敬語を使わなければならないのか。
これらの理由は全て根本的には一つです。
そうしないと不快に思う人がいるからです。
歴史的に連綿と続いてきた慣習(もちろんかつては現実的な必要性を伴うものも多かったでしょう)等を背景として、「やらないと不快に思われるような行動をする」「やると不快に思われるような行動は避ける」、これが「マナーを守る」ことの本質です。
この考え方自体は決して間違っているものではありません。社会という共同体の中で生きていく以上、その構成員が不快に思うような行動を避けることは社会的生物である人間の基本的な努めであるといえます。

しかし同時に、「やらないと不快に思われるような行動をする」という理念は無制限に貫徹されるべきものではありません。
なぜならば、やらないと不快に思われるような行動を貫徹することは、その行動の内容によっては実害をもたらす可能性があるからです。
具体例を挙げてみます。
現代社会ではビジネスの場におけるスーツの着用はマナーとして一般的に浸透しています。
しかし、例えば地球の気温がどんどん上がっていき、スーツを着用すれば必ず熱中症になって倒れるような社会になってしまったら、スーツ着用というマナーは存続するでしょうか。
間違いなく消滅すると思います。
スーツの着用という「やらないと不快に思われる行動」をすることによって被る実害の度合いが、「不快に思われるリスク」を上回るからです。換言すれば、「これだけの実害があるのだから、やらないと不快に思われる行動であってもやらなくてよい」という意識が社会に浸透することが、マナーの内容に変革をもたらす要因の一つとなるのです。

以上のことから分かるように、マナーの内容は「社会という共同体の構成員を不快にさせるリスク」と「マナーに則していると思われる行動をとることにより被る実害」との比較衡量によって決せられるべきであり、どちらかの考え方も根拠なく優先または劣後させてはいけません。先ほどのスーツと熱中症の例を見れば分かるとおり、マナーの名のもとに実害の発生を放置しておくことは社会そのものの弱体化・崩壊に繋がりかねないからです。逆に、守っても実害がないマナー、実害があったとしても些少であって(何をもって些少というのかもしっかり考える必要がありますが)社会の構成員を不快にさせない価値のほうが高いと考えられるマナーは社会において存続されるべきなのです。スーツの例でいえば、スーツの着用が健康への悪影響等の実害をもたらす度合いがない、またはスーツを着用しないことによって社会の構成員を不快にさせるリスクに比べ少ない限りにおいてスーツの着用は正当なマナーとして社会に存在するべきといえるのです。
逆にいえば、社会の変化によりそれまでマナーとして認められていた行動について大きな実害が発生するようになった、または大きな実害が存在することが明らかになったにもかかわらず「社会の構成員を不快にさせるリスク」ばかり追いかけてマナーの内容を変化させないこと、これこそが「旧弊」という概念の本質です。

話の規模を元に戻します。
上に挙げた研究内容からも分かるとおり、ネクタイの着用はアルツハイマー病の発生原因となり得ることが指摘されています。思考力の低下にも繋がります。
各人の価値観による当てはめにはなりますが、個人的には社会において「この装具を付けると思考力が低下し、アルツハイマー病に罹患する可能性が上がることが科学的にも認められているが、付けないのはマナー違反だから付けろ」と強制することは明らかに「社会の構成員を不快にさせるリスク」を不当に優先させた「旧弊」だと思います。
「その程度の実害は我慢しろ」と考える方もいらっしゃるかもしれませんが、例えばビジネスの場において思考力が低下することは「その程度」で済まされるような話なのでしょうか。

ただし、だからといって明日からいきなりネクタイを着用せずにビジネスの場で顧客と会えるかといえばそれは現実的ではありません。「ビジネスの場ではネクタイを付けることが当たり前」という考えが今の社会にはあまりにも強く浸透してまっているからです。
しかし、決して小さくない実害がその考えには付随しています。先ほどのスーツと熱中症の例からも分かるとおり、これまで社会的に認められてきた行動に小さくない実害があることに気付いたらその行動から手を引き、全ての行動を「利益は最大限、実害は最小限」に規定していくことが社会の進歩なのではないかと思います。
もちろん、実害の存在を知っても「それよりも周りを不快にさせないことが何よりも大事だ」と考える人がいること、またその主張自体を一概に否定する訳ではありません。ですが、また一方で「小さくない実害があるならそのマナーには執着しなくていい」という考え方も同時に浸透するべきなのです。実害の存在に気付き、マナーの内容を「構成員を不快にさせるリスク」と「実害」の比較衡量の中で柔軟に捉えることが社会の進歩なのです。実害の存在を周知し構成員の意識を改革することが社会のレベルアップに繋がるのではないかと思います。

ネクタイ着用のような小さくない実害を伴うマナーは捨て、社会のレベルを上げていきましょう。

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