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わたしの現在地 #2(パートナー編)

ここ1、2年の間に起こったことや感じたこと、今後について等を、4つの視点――「学び」「パートナー」「セックスレス事業」「仲間」で見返し、現在地を指し示すことができたらと思います。

2回目の今回は、「パートナー編」です。妻とのことや、前妻とのことにまつわる出来事、どう心が動いたか、その変化などについて記してみることにします。前回の「学び編」はこちら


ある写真を目にして

 2022年の冬。前妻の子供と思われる写真を目にしてしまった。私と前妻との間には子どもはいなかった。きっかけは私の祖母が他界したことを前妻にも一応報告しておこうかと、コロナ禍に相互の安否確認して以来のLINEを開いたときのこと。彼女のプロフィール写真に乳幼児が写り込んでいた。最も恐れていたことが起こってしまった、と動転した。

2022/2/27
夜、〇〇(前妻)に祖母の他界を知らせようと、LINEをひらくと赤ちゃんのプロフィール写真。〇〇とは全然似ていない。何か胸が臨界してしまいそうだ。

当時の日記から抜粋

 その後の日記にこの件はしばらく書かれておらず、ようやく3ヵ月ほど経って「レスへの気持ち(※レス活動へのモチベーションの意)、〇〇の写真への思いらへんのモヤモヤをどうにか(どうしたらいい?)した方がいいのだろうか、、分からない。」と書いている。
 当時もレス活動をしていた時期であったが、写真を目にして以降は、かつてのような「セックスレスを何とかしなきゃいけない」という炎のようなものがじわじわと小さくなったことを実感しつつあった。
 セックスレスが1つのきっかけで離婚へと至った前妻に対して、それまでは「レスの経験を元に活動する俺をみといてくれよ」というような、復讐心とは異なる、いわば「張り」のようなものがあったのだと思う。今回の写真は、声を掛ける相手はもうその土俵には居ないと私に気づかせたのだと思う。

 この写真を気持ちの上でどう扱うべきか。2つの方法で成仏することができた。1つは、前妻から過去にもらった少なくない手紙を見返したとき、「あぁ、自分はすでに一生分以上愛されていたんだな。」と気づいたこと。これはまだ言える。もう1つは、オイオイというような書くのをためらわれる話なので、同じ経験をした人にだけ伝えることにする。ご容赦。

再婚の決断

 2023年春。かねて3年ほどお付き合いしていた人と結婚した。ことの順序としては、それまで互いに一人暮らししていた神奈川を離れ、長野に二人で移住してみようかと話が進み・・・ということは結婚するということ?と、決断するタイミングを迎えた形だ。しかし、3日ほど決めることができなかった。結婚するかしないかを迷ったのではなく、決断するための理由探しとも少し違う。不確かな世界へのジャンプをためらっていた、という言い方が近いのかもしれない。

 彼女は、レスの活動で中々前に進めない私のことを専属チアリーダーのように応援してくれていた。そんな一面をもつ彼女に対して私はどんな想いを抱いているのだろうか。「好き」「愛している」--あるにはあるがどうもしっくり来ない。
 ふと思い起こされたのは、以前彼女の額にそっと接吻したときの記憶だった。それは、彼女のことを大切に想う感情から自然に出たふるまいではなかったか。『あなたのことを大切に想っている。』この言葉は、プロポーズの言葉として少なくとも私にとっては十分なように思われた。

 ジャンプできたもう1つの理由がある。「もしかしたらこの人ともダメになるかもしれない」「やめておけばよかったと後悔する日が来るかもしれない」等といったいわばリスクを天秤にかけ始めたことで、なかなか決断の天秤は動かないままだった。
 大きく動かしたのは、『自分は運がいい、どうなっても何とかなる』というモットーのようなものだった。根拠はなく、裏付ける実例もない。しかし昔からこう考えているフシが私にはある。間違ったジャンプをさせたこともあっただろう。でも今のところ、今回の決断に関してはぴったりと合っているようだ。

こうしてレスになっていく?

 今回最後のお話。
 現在、結婚相手とはセックスレスに悩むようなことはなく、数年のお付き合いと1年余りの共同生活を続けることができている。私もパートナーもセックスには比較的ポジティブであり、この先レスを心配することはないだろうと思っていた。事実、交際中は月に数回、ほぼ会うたびにセックスがあった。
 しかし、生活を共にするうち、「レスになるってこういうことか」と気づかされたことが2度ある。

今日は・・・いいかな

 1つ目は、同棲以降セックスに向かう気持ちが小さくなったこと。したいと感じる夜も当然あるが、パートナーが横に居ても「今日は・・・いいかな」と思う夜が多くなった。
 交際中はお互いの魅力的な部分をある程度意識して見せ合うことができるわけだが、同棲となるとお互いのアラが見えてしまう。また、寝室は「彼女と自分のための」でもあり「自分がリラックスするための」空間でもある。これらはしばしば言われていることでもある。しかし理由はこれだけだろうか。

 気づいたことがある。セルフプレジャー(=マスターベーション、以下「セルプレ」)が減ったことだ。減った理由は単純に同居によって状況的チャンスに恵まれなくなったためだが、重要なのはセルプレが減ったこと自体でもその理由でもない。セルプレが減ったことによって「性的な空想力」が弱まったのではないか、ということだ。
 我々はセルプレで、現実では実現しづらいような性的シチュエーションを空想したり、オカズを用いたりしている。そして性的空想に耽ることを楽んでいる。セルプレが減ることで、性的空想の訓練が失われ、つまり、エロさが無くなってくるのではないか。こんな仮説が思い浮かんだ。もちろん相手のあるセックスでもエロさを育むことはできる。ただ「エロさの自主トレ」も必要なのではないか。自らの身をもってこの仮説を検証中だ。

大事にする存在

 こうしてレスになっていくのか。という経験をした2つ目は、パートナーの妊娠にまつわる。ちなみに妊娠中の性行為の是非については、医師の見解であっても、”基本的に避けて”というものと、”健全な妊娠状態であればOK”というものに別れている(※1)。かかった産婦人科医に質問してみると、やんわり「推奨はしません」との答え。パートナーと話し合い「自分たちは無理のない範囲でしよう」ということになった。

※1 全くの個人的見解だが、妊娠中の性行為の是非が分かれる理由は、妊娠中のセックスのメリットとリスクをどう捉えるかだと考えている。リスクはもちろんある。一方でカップル間のコミュニケーション、ストレス緩和等のメリットもあるとされる。セックスしないことでリスクは回避されるが、その代わりメリットは享受できなくなる。この天秤は当然ながら定量的に判断できることではない。どうすればいいのだろうか。思いつくのは、医師とカップルを交えた三者間で話して、三者それぞれがある程度のリスクテイク(メリットを逸する意味も含めて)をして判断するということではないだろうか。

 妊娠以降、セックスは何度かあった。ただ、エコー写真を目にしたくらいの時期からもう数ヶ月ほどセックスを持ちかけていない。セックスしたいという気があまり起こらないのだ。
 パートナーをこれまでのように性的魅力をもつ存在としてみること、かたや私にとって未知の命を内で育てる存在として扱うこと。この重なった姿の板挟みになっているのだろうな、と頭で考えることはできる。反省すべきは、現状のセックスについてパートナーの思いを聞いてないことだ。この週末、話してみることにしよう。

 これらの私の例のように、カップルのセックスライフは、単にセックスが好きか嫌いかではなく、時期を経るにつれ、さまざまなブレーキがかかる。じゃあたまにはアクセルを、という単純な話でもなく、”あれ今どこに向かっているんだっけ?”というような『方向を問う(自分で、二人で)』ことが、大事なのではないか、そう考えている。


今回は、「パートナー編」ということで、前妻とのこと、再婚のこと、自身のセックスライフ事情を記しました。次回は「セックスレス事業編」です。最後までお読みくださりどうもありがとうございました。

後記:前回に引き続き、”ですます調”で書こうと思ったのですが、今回、特に写真の話は、”である”調でしか書けませんでした。なんででしょう?



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