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わたしの現在地 #1(学び編)

ここ1、2年の間に起こったことや感じたこと、続いていることや今後についてを4つの視点から、いくつかピックアップしてここに残してみたいと思います。きしなおどうしてる?と思ってくれた人への近況報告になればいいですし、私自身の整理にもなればと考えています。

4つの視点は、「学び」「パートナー」「セックスレス事業」「仲間」からなります。この数年間でこれらは独立しておらず、入り混じっていると思います。例えばパートナーとの出来事がセックスレス事業に影響したりと。そんな入り交じりを、書きながら私自身が新たに発見できたら面白いかもしれません。

初回は学び編。今現在の私の、考え方や知識、価値感などを形づくったここ1、2年の話です。


家族心理学

2022年、心理学科で心理学の基礎を、並行して家族相談士養成講座で家族心理学を学びました。家族心理学は、「関係」の心理学です。主に夫婦関係や親子関係を扱います。”人の心 vs 人の心”というよりは、2人の間にある関係をも含めた「システム」で問題を捉える視点があると知った時、これだ、と感じ学びはじめることにしました。2人の講師の話をよく覚えています。

人の尊厳をみる

相談を受ける者は、相談に訪れた人をできる限り知りたいと話を聞きます。でもどれだけ時間をかけても、理解できるのはその人のほんの僅かな部分です。(これは私の作った架空の例ですが、)夫が育児に関与しないことに妻が怒りと半ば諦めを感じているとします。そこで、妻に共感し、なぜ育児に協力的でないのか理由を夫に聞こうとする、従来はこんな安易なアプローチが私の頭にありました。

人の尊厳を見るとはそうではなく、相談の場に来るまでの何年か、家庭を維持するための努力を夫婦それぞれがきっとしてきたのだろう、妻は子供を日々大切に扱ってきたのだろう、夫には育児に関与したくてもそうできない理由があったのかもしれない、こういったことへ思いを馳せることだと理解しています。

人の尊厳をみるとは、問題が生じている今の状況に至るまでの間、長い時間をかけて「積み重ねてきたこと」をみつけ、尊重するということ。

家族相談士養成講座の受講メモ1

人の尊厳をみようとすることで、相談者の信頼を得るきっかけになること、そして何より私自身が尊厳の目を通して相談者のことを信頼し始められることが、多少なりとも実感できるようになりました。

他者は変えられる

「他者と過去は変えられない、変えられるのは自分と未来だけ」という言葉を耳にすることがあります。これはこれで事実の一側面を言い当てていると思います。ただし講師は、

人は他者のために動くことができる。近しい人が本当に困っていることを知れば、人は他者のために動くんだよ。

家族相談士養成講座の受講メモ2

というようなことを語気を込めて言いました。これ以上説明する必要はなさそうです。

ちなみに家族心理学とは直接関係ありませんが、別のある人から「過去は変えられる」という話を紹介してもらったことがあります。スピリチュアルではなく。過去の事実は変えられないけれども、我々人間は、過去の事実ではなく「過去の解釈」で今を生きている、たしかこういう話だったと思います。人から言われたことに傷ついた。言われた事実も傷ついた事実も変えることはできません。でもひょっとしたらこんな思いからあの人はそう言わざるを得なかったのではないか、そう解釈し直してみることで、「今の」私の傷が少し小さくなるかもしれない、こう理解しています。

2023年初めに家族相談士の筆記・口頭試験を受けました。が、理解が足りていない、との理由で不合格に。今年も受験する機会はありましたが、まだ足りてないなと自ら感じ出願しませんでした。ですが、来年の春、リトライしたい。やっぱり、学んだことが1つの形になれば嬉しいに違いありません。

本(アンリ・ベルクソン)

2つ目の学びは本です。この数年で読んだ本の中で、今の私を占める成分に最も寄与した本はどれだろう、と考えた時に浮かんだのがこの本でした。ベルクソンは19世紀末~20世紀初頭のフランス哲学者です。

本と言いながら、本の中身についてここでは触れないことにします。本というより、この人の書く姿勢、考える姿勢に動かされているからです。

『意識に直接与えられているものとしての試論』(時間と自由)
アンリ・ベルクソン著(竹内信夫訳)

少し変なことを言いますが、本を読み進めるとき、「お!この人(著者)本気を出してきたな、腕まくりし始めたな~!」ということをここ数年で感じるようになりました。そういう本に出合うことが本を読む楽しみの1つでもあります。本の中の1ページで感じる本もあれば、最後まで感じない本もあります。

ベルクソンの場合、最初から最後まで、ずっと腕まくりして書かれているように感じるのです。この本の中でベルクソンは、”時間は空間のように測れるものではなく、質的なものだ”というようなことを、当時最新の科学的知見を交えながら、延々と書き続けます。閑話休題はありません。批判を恐れず、自らの直感・思考を頼りにずっと本気で書いていることが伝わる文章です。

かたや私が文章を書くとき(例えば今このような文章)、自らとしては腕まくりしているつもりで書いています。しかし、読んでくれた人にとってはどうなのでしょうか。たとえワンフレーズであっても、そう思ってくれる人がいるような文章を書けるようになったら、と思っています。

強歩大会(歩くこと)

2024年春に出場した強歩大会での経験が、今回の最後の学びです。80km近いコースを、夜通し次の日の昼前後まで歩く大会です。長距離系の大会に出場した経験はなく、歩くことが身についていたわけでもありません。きっかけは昨年、農業のお手伝いをした先の人が、過去に完走した話を少し誇らし気に聞かせてくれたことが頭に残っていたせいだと思います。参加者募集のチラシを見た時に「よしやってみっか!」と決めました。結果としては、およそ16時間半をかけて完走できました。

大会のおよそ2ヵ月前から週末のたびに、まずは5㎞、翌週は10kmと距離を伸ばし、大会1週間前には35㎞まで(それでも本番の半分に満たない)、何とか歩けるようになりました。いきなり高みを目指すのではなく、この練習のようにコツコツと積み重ねていくことが、また何時間もかけて1つ1つ歩を進めていくという、歩くこと自体が、「あぁ、確かこれは自分のスタイルだったよな」と、忘れかけていたことを再発見した経験でした。

大会当日、不思議な体験をしました。こっちはスピリチュアルかもしれません。50㎞を過ぎ、下半身のほとんどのスジと筋肉に鈍い痛みを感じながら歩いているとき、急にブワッと涙が出てきちゃいました。そしてその1,2分後、ズッキーンと激痛が左足に走りました。はっきりとは覚えてませんが、涙の直前に「よくここまでよく頑張ってきたな」という感情が通り過ぎた気がしています。涙と痛みの因果関係があるのかどうかは、分かりません。それから残りの30kmは、「おい右足、お前はもう少し頑張れ」「左足、お前は無理するな」「とはいえどっちもつらいよな、俺に任せとけ」というようなことを、心の中で大真面目につぶやき続ける道のりでした。おいどうした、という話になるかもしれません。が、きれいに言わせてもらえれば、自らで自らを励まし、信じて、頼りにした道のりでした。

自分のスタイルを再確認できたこと、自分自身とより近くなれた気がしたこと、この2つが学びです。もう1つはゴールできたこと、これがしみじみと嬉しかった。この数年間、資格試験も落ち、申し込んだビジネスグランプリも落ち、レス事業も未だに立ち上げられない。いわば「負け癖」がついた状態でした。そんな中で、何年ぶりかというくらいの祝杯でした。そんな私に、この強歩大会は小さくない自信を与えてくれた経験となりました。


今回は、ここ1,2年の記録の「学び編」ということで、家族心理学、本、強歩大会からの学びを記しました。次回は「パートナー編」を書き進めようかと思います。最後までお読みくださりどうもありがとうございました。


※2024/6/8  タイトルとヘッダー画像を修正しました。


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