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「正解」にも余裕を持って対峙したいと思う最近のオレ。

最近たまに「正解」について考えます。
たぶん、インターネットが発達して
「正解」に対する要求が高くなり
「正解」に対する許容がなくなってきた
そんな感じがあります。

少し言語化してみようかと思います。

正解を急かされる世界

インターネットによって
人の行動で加速したもののひとつに
検索があると思います。

疑問に思ったときに
すぐに調べられること

これは素晴らしい技術革新であり
知的好奇心をくすぐりまくる
現象です。

インターネットがなかったころは
疑問に思うことに対しては
知ってる人に聞くか
自分で思慮深く考えるか
など時間がかかるものでした。

しかし、昨今は
スピードが求められる時代と称して
こういう「解決」にさえ
スピードを求めます。

スピードを求めることが悪ではありません。
世間が早いですから
スピードがないとついて行けないという
リスクはあるわけで、まぁ大変な世の中ということです。

こういった、「正解を急かす」というのは
致し方ない状態ですが、
果たしてその「正解」の粒度を
どこまで求めるべきなんでしょうか??

話半分が無理

そして、信頼のあり方によっては
「話半分に聞いておく」といった
調べる側の余白がその昔はありました。

しかし、検索で
インターネットで「正解」がすぐに
見つかるという幻想を抱いたから、
この「話半分に聞く」という余白がなくなっている
という事実もあります。

誰もが完璧な情報を出せるとでも
思っている世間があるわけです。

いやいや、そんなことないし。
「話半分で聞いてよ」ということが
どこか許されない風潮がありますよね?

権威者の話は完璧か?

答えを言うと、そんなことない!です。
有識者と言われる人だって
知識を有してるだけであり、
知識とは歴史です。

ぶっちゃけ過去のことを
知ってると言ってもいいでしょう。

そして、歴史は変わります。

話は少し変わりますが
僕が小さい頃は
恐竜には羽毛はなかったわけです。

いつからか
恐竜に羽毛がつきましたが、
「うそん!まじで!」くらいで
怒りは出ませんでした。
たぶん、テストで丸がついた問題も今やバツかもしれません。

もちろん、
現代の命に関わる情報ではないので
レベルは違いますが、
情報に対する、正解に対する
期待値がいつの頃からか上がってるのではないかと
思うんです。

発信側と受信側の意識のバランス

そうなってくると必要なのは
バランスです。

今回の記事は
どちらかというと受信側が
許容しないとという論調ですが、
発信側もレベルをあげないといけません。

つまり、
発信側は、自分の論調が間違ってるかもしれないという謙虚な姿勢を持ちながら堂々発信を行い、もし違うと思えば、無駄なメンツなど排除して訂正する力が、

そして、
受信側は、探した情報に対して急がず許容できる余裕を持って受け取り自ら消化する力が

大切なんじゃないかと思います。

これは意識のバランス。
カリカリすると疲れるけど
余裕を持てばバランスも取りやすくなる気がします。


難しい言い方ですが
急ぐなら余裕を持とうということかな。

もし気に入ってもらえたら嬉しいです。情報の発信とコミュニケーションについていろんなチャレンジをしていきます。どうぞよろしくお願いします!