【ショートストーリー】10 君といた未来
「シンギュラリティはこなかった、か」
そう呟くと、未來はまだ暑い九月のギラつく太陽を睨んだ。
2045年の夏は平均が38度を越える酷暑が続いた。街並みを眺めれば陽炎に20年前と同じような景色がゆらめき浮かび上がる。
自動車の自動運転の技術も向上したが、行きつけの喫茶店に停めてある日産パオは、いつも通り薄橙色のいい顔をしている。
「うーす。こんちは」
カランコロンと昭和な音がひろがった。
「あ、未來さん。久しぶりですね、元気ですか」
未來はカウンターに座る。冷房が心地よい。
店内は静けさに満ちていて、正午だと言うのに客はいない。店内にはウエス・モンゴメリーのジャズギターが聴こえた。
「相変わらずだよ。腹はちょっとやばいな」
未來は腹を丸く触っておどけた顔で答える。
たくさんの書架が並び、80年代から90年代を中心に懐かしい作品の文庫がタイルのようにならぶ。シンギュラリティはこなかったが、今読めば時代劇のようなおかしさもあった。
「注文はどうします」
マスターは何か作業しながら未来に尋ねた。
「アイスコーヒーもらうよ」
「調子はどうだいマスター」
「相変わらずですよ。でも最近娘が籍をいれたいって。19ですよ。未來さんどう思います」
「はは、さすがにビビっちゃうな。そうか、もうそんな歳になるか。立派な成人だからな。こわいこわい」
未來は笑った。
「笑い事じゃないですよ。ホントに」
「近いかもな、娘さんをください、がな」
「いやいや、僕は聞きませんよ、そんな戯れ言」
真剣なマスターの顔に再び未來は笑ってしまった。
BGMはクラプトンに変わる。というかマスターが変えてくれたのだろう。
店内には小さなライブスペースがあって、マスターの年季のはいったテレキャスターがスタンドにたてられている。ドラムはさすがに電子ドラムだが、機材や楽器の進化は目覚ましい、本格的なライブが手軽に楽めることが分かる。
どんな機械が進歩しても、アンプやシミュレータが進化しても、ギターはヴィンテージの枯れた音が心地よい。
「未來さんもどうです?久しぶりに」
どうぞと、アイスコーヒーが差し出された。カウンターの木目を指でなぞれば、この木の歴史に触れた気になった。
「また機会があったらな」
マスターとは30年来の付き合いで、学生の頃いっしょにセッションしたこともある後輩だ。20年前は仕事でも大切なパートナーだった。
「この間ね、久しぶりにツェッペリン叩いたんですけど、衰えを感じましたよ。頭で考えてることと体がついていかなくて」
マスターは笑って言った。
「おっさんがサッカーする感じだな。ジョン・ボーナムも、死ななきゃそんな感覚をいつか感じたのかもな」
未來は少し言葉に詰まった。
その時だ。
ジジジ・・ジジ
目の前が歪み、機械的な雑音が未来の鼓膜を揺らした。
「マスター、機械の調子悪いみたいだ。また今度な」
目の前が真っ暗になり、着信音のような機械音が二度遠くから響いた。
未來はヘルメット型のVRアイシェードを顔から外して、重たいハンドコントローラとフットコントローラのマジックテープを丁寧に剥がした。
振り向くと、専用ソファーに備え付けられた映像を送るPCに観葉植物が倒れている。コードが抜けかかっていたのだった。
「ふぅ。これか」
一瞬、爽やかな風が入り込んだ。
夏の終わりを感じさせる少し土臭い香りを運んで。
写真立ての古い色褪せた写真を未來は眺めた。
久しぶりに未來は、あのテレキャスを弾こうかと思った。
おしまい
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