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【ショートストーリー】31 メトロに響く透明

タービンの唸るような響きに、動き出す車体の軋む音が重なる。走行音と同じリズムが身体に伝わってくる。

僕は長男と地下鉄にいた。

ベビーカーのとびでたグリップをしっかりと握る。二歳の長男は僕の気持ちを知ってか知らずか、頬をサイドバーに突っ伏し、お饅頭のような寝顔を見せる。

妻が出産予定日の二ヶ月も早く入院した。こうして地下鉄を乗り継ぎ妻の病院へ行くのも一週間になる。仕事を定時でぴたりと終え、保育園に迎え、妻に会いに行き、帰れば家事に追われた。妻やお腹にいる次男の心配、日々の生活の維持、仕事へのプレッシャー。

言葉には出さなかったが心身への疲労があっだろう。互いの親は遠方で、僕らにとっては、親に協力をあおぐ方がストレスになることも分かっていた。

親になった僕たちが、自らの親たちと一定の距離をとっていたいと思うことは、少なからず僕たちの子育て感や、親子感に影響を与えるのだろうと思っていた。

自分がされて嫌だったことを子どもに強いるだろうか。そんな時、「歳をとると嫌でも親に似るもんだ」と言った自分の「生きずらさ」を抱える父親に対して奥底から込み上げる嫌悪感に苛まれた。

「おれの行く末はアル中かな?」
地下鉄の揺れを思いだし、僕は声にならない声でつぶやく。

「あった、あった」
長男がいつの間にか起きて、地下鉄の駅のホームドアに興味を寄せていた。地下鉄が停車すると白杖を持った大学生風の女の子が、ホームと車両の間を素早く杖で確認し、無駄な動きなく乗り込んだ。

優先座席にいた僕は、ベビーカーを折り畳み、長男を抱きかかえる。

「こちら、どうぞ」
反射的に席を譲ろうと白杖をもつ彼女に声をかけた。ところが、長男は意に反して抱き上げられたことに不服だったのか「あっち、イヤだ、イヤだ」と大きな声をあげる。

そんな状況を察してか、その女の子は「席座ってくださいね。私は大丈夫ですから」と優しく言ってくれる。

「いえいえ、どうぞどうぞ」

もう一度僕は勧めた。

ただ、いやいや期まっただ中の長男の、思いは止まらなかった。僕の胸のなかでわめき声に似た訴えを続ける。

身体をのけ反るようにして、今にも泣き出しそうな様子を見せる。

その時だった。

チリンチリンっと、その女の子は白杖の握る部分の先端についている鈴の音を響かせたのだった。

チリンチリン。
チリンチリン。

長男は興味を一点に向けると、自分の不平不満を忘れて、その澄んだ硝子玉のような鈴をじっと見つめていた。

彼女にもそれが分かったのか「フフッ」と笑ってもう一、二度きれいな音が地下鉄の走行音のなかでも確かに響いた。

透明な響きだった。

「あげるね、これ」

彼女は、器用にその鈴を白杖からとると長男に渡した。手渡した角度がずれたが、長男は自然と修正して手にとると目を輝かせ「ありがと」と言った。


彼女の優しさと、「ありがとう」を言える長男の成長に胸が焼けるように詰まり、僕の思考が何かで埋まっていく。


「ありがとう‥‥ございます」
彼女には僕の涙は見えないだろうけれど、言葉に心を込める。

ゆっくり、そっと。

疲れたきっていた僕の心に、何かが灯った気がした。それが何か分からなかったが、大切で尊いものであることは確からしかった。


おしまい






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