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【ショートストーリー】18    猫のいる生活

彼女が保護されたのは雨のなかたたずむバラックの屋根の下。

笑いもせず、泣きもせず、なんの抵抗もなかったと、その地区の民生委員の方が言っていた。

10歳くらいの彼女に、温かいスープと鮭のおにぎりを差し出した。怪訝そうにスプーンを眺めると、一気に器を持ち上げ口から胃袋に流し込んだ。

名前を問えば、しばらく考えてから「ちほ」とだけ言った。今となってはそれが名前だったのか疑わしい。ただ、彼女は明確にそう言った。

児童福祉施設の館長は、彼女の食欲のある様子や、からだに傷がないことを見ながら、自分も珈琲をすすった。

不思議なことに、服こそ色が褪せていたり糸がほつれたりしていたが、彼女の身体は清潔で髪なんて特に黒く綺麗で長く艶やかであった。

施設の暖かな空間で、いつも彼女は落ち着かないようすであった。おもちゃや絵本を少しだけ触っては手を離し、また違う何かを探しているようだった。

名前以外に彼女が話した言葉と言えば、「ごは【ん】」と「ねる」と「うん」だけだった。ただ館長や職員の言っていることはなんとなく理解できているようだったし、絵カードのようなものを指差したり、職員の腕を引っ張ったりと、何かを伝えようとする場面は日に日に増えてきていた。

彼女が唯一興味をもったのは職員の持ってきたベースギターだった。音階を自分で探しては爪で弾いたり指を引っ掻けて鳴らしたりして楽しんだ。

「楽しんだ」という言葉が適切かは分からない。長い時間その音や音階を規則的か不規則的かにかかわらず鳴らすことに没頭していた。ベースギターを持ってきた職員の弾きかたを教えてあげようというちょっとした好意も彼女は遮って、ただ音を耳を近づけ自分で鳴らした音を聴いていた。

いろいろな楽器が施設にあったが、彼女はベースギターにしか触らなかった。南向きの窓際のだった。二階への階段そばにおかれたベースギターを横におき、まるで大正琴や琵琶でも弾くように一音一音大切に弾く瞽女のような彼女の姿は神々しくもあった。

彼女が保護されて一年がたった。

施設のクリスマス会が行われた。
全国から寄付やプレゼントが子どもたちのもとに届き、多くの子どもたちは嬉々として盛り上がりを見せていた。

華やかな電飾のイルミネーションで飾られたクリスマスツリーと、テンポのよいクリスマスソング。
窓の外にはあられのように舞う雪。

いつものように窓際にたたずむ彼女が、突然流れていたBGMにあわせてベースギターの弦を弾き出した。

館長はすぐにマイクで音をひろう。
館内に低いおととサイレント・ナイトのメロディーがいっしょに響いた。

Silent night, holy night
All is calm, all is bright

Round yon Virgin, Mother and Child
Holy Infant so tender and mild

Sleep in heavenly peace
Sleep in heavenly peace

静寂のなかの何か神聖な時だった。

曲が静かに終わった。
彼女が、少しだけ笑った。
はじめてだった。
彼女が、少しだけ笑っていた。

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雨のなかたたずむバラックの屋根の下。

僕は保護された猫に何か不思議なストーリーをおもい描く。

今日から家族が一匹増えた。

おしまい

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