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とある大学生の日常-June


2024.06.03 スケッチする追憶


毎週月曜日、4限目。
私にはとっても好きな授業があります。
それは、「空間デザイン入門」という、空間のあり方や、日常にある空間のデザインについて学ぶ授業です。

今日も課題をしようとして、授業の内容をふと思い出しながらスケッチをします。
「原風景を描く」それが課題でした。
もうない景色、自分の記憶に残っている景色を描き起こすのです。
もともと課題が多く、必死になって追いつこうとしている授業の一つではありましたが、この授業を受けて日を重ねるごとに、何だか少し寂しい気持ちになったことを思い出しました。

寂しいな。

それは、追憶です。

私には好きな景色があります。

もうないけれど、実家の中庭に植えられていた「シマトネリコ」。
タイルは時間の経過とともに段々黒ずんでいって、割れていく。
でも日々移り変わっていくから、大きな変化があるまでは気が付かず。
「シマトネリコ」は病気だったから、元気がなかった。
大窓を開ければ、夏は微風が入ってきた。
でも最近では、涼しげな風よりも茹だるような暑さが照りつける。
それでも夕方になれば、蝉時雨。
雨上がりには、ヤマバトが不気味に合唱する。
晴れた日には、時折鈴虫の声がする。

私の好きな景色は、家のリフォームとともに消えてしまいました。
涼しげな風も、肌に照りつく夏の暑さも。
虫の声も、ヤマバトも。
みんな残っているのに、景色だけ、消えてしまいました。

ああ、そういえば書いていて思い出しました。
あの景色の私の季節は、ずっと夏で止まっています。
肌に残る感覚が、頭に残る音が、目に焼き付いた「シマトネリコ」が、私の中では再生され、呼応され、目覚めさせられます。

私はずっと、誰もいない、今となっては昔になってしまった中庭を思い出してどこか遠い第三者の目線でぼんやりと見ているのです。

さようなら、またね。

ちょうど工事が始まったある夏の日だったかしら。
家族になって1年ほど経った飼い猫のテンが、工事される風景をじぃーっと眺めていました。

さようなら、またね。

彼も、そう言っているようでした。

そこにあるけどない風景

2024.06.05 梅雨の晴れた日


梅雨の晴れた日。

じめじめとした湿気が私たちを包む、そんな季節ですね。
この記事を書こうとして、もう2日経ってしまいました。
そして、なにを書こうとしたか、忘れました。
とりあえず私と母のLINEのやりとりを少しだけお話ししようかと思います。

私と母は、比較的仲が良い方だと思います。
ほぼ毎日のようにLINEを送り合う程度には。
しかし、だからと言って一生何かを送り合うというよりかは、お互いどこかのタイミングで「めんどくさ」と思ってスタンプかリアクション、そのまま放置してなにも返さないなどをする、ちょっとドライな感覚です。

それが心地いいと思っているのでなんら問題はないのですが、ちょっと依存しすぎかな?と思い、少しだけ送ることをやめる時もありました。
しかし送らないなら送らないで、向こうから猫の写真が定期的に送られてくるので結局それに釣られてしまいます。

そんなこんなで、お互いにどうでもいいことや猫のこと、休日したこと、描いた絵や公演のことを話していると、ふと、季節は梅雨になり、私の手元には一枚の写真が送られてきたのです。

紫陽花

紫陽花。
家の庭に植えられています。
私が小学校2、3年生くらいの時、母の日のプレゼントにあげた花です。
もう、何年も前の話です。

「紫陽花を買ってあげる!」

と言って、ホームセンターでこの花を買ってプレゼントしました。
支払いを私がするというだけで、装飾をして渡したとかそういう話でありません。

当時の私は、お店でお昼ご飯を食べて、その金額を私のお小遣いから払う、と言って結局、3000円分支払って、紫陽花を買うお金がなくなってしまいました。
それから、お店から出てすぐ母から3000円もらって、紫陽花を3000円弱で買って渡すという非常におかしなことをしていたような記憶があります。

幼いながらにその日を特別なものとしたかった私の気持ちを、母は汲んでくれたのでしょう。

その後ホームセンターに行って、紫陽花を購入、それから家へ持って帰り、母が育てていました。

買った当初は、植木鉢に収まるくらいの大きさでしたが、今では庭に咲いている薔薇と競争し合うように大きくなっています。

今年も、紫陽花の季節が来ました。
じめじめとしていて、低気圧で、とても苦手な季節です。

しかし、紫陽花を見るたびに私は思い出すでしょう。

幼い頃の、母の日の記憶を。



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