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「箍がはずれたサーカス」への夢。

自分にとってアーティストは、箍をはずすことができる人たち。

箍(たが)をはずす、ということはずっと憧れていたし、自分と、ほんもののアーティストを分ける高い高い壁、みたいに感じてる。
冒頭の写真は、2005年に札幌芸術の森と北海道新聞社と札幌テレビ放送STVの3社共催で、取り壊される前の円形劇場Spicaで開催した、現代サーカス。

フランスの現代サーカス「グリム」

この作品は、カアン・カアという、当時フランスで人気を博していたフランスのカンパニーの作品で、自ら「Cirque Batard(親知らずサーカス)」と名乗っていて、慣習とか良識とかを、時に心地よく/時に意地悪に蹴り飛ばしてみせるような作風だった。

雰囲気は暗く、途中にはカラスの羽根の風呂に裸ですべりこむ女性がいたり、かなりきわどい作品。けれど、急かすような踊りたくなるようなリズムの音楽がそのきわどさを心地よく変えていくのだった。
「見てみろよ、できるかい?」といった挑戦的な目線でつくられる作品に、どぎまぎしながら魅了される自分がいた。
でも、観客のなかに1人、わざわざ首を捻りながら近寄ってきた男性がいて、今思えば完全に否定的ではなかったのかもしれないが、
「この作品は、…どう面白いのか教えてくれませんか?」

と告げてきた。ほんとうに尋ねるわけでもなく、呟きのように。
まだ日本でほとんど現代サーカスが紹介されない中での、この雰囲気の公演だったので、お客様の反応は非常に気になるものだった。
それが、私に向けて的を定めたかのように、その人は言葉を投げてきた。
その後、あろうことか自分は楽屋で泣き出してしまい(なんということ!)フランス人のチームはとまどっていた。
けれど、翌朝劇場に向かうと、
チームの全員が集まって、ひとりずつ、私をハグしてくれた。言葉もなく、どこまでも優しい力の入れかたで。

主催者のくせに、自分のしてしまったことが恥ずかしく、誰よりもチームを守らなければならないのに、これから日本に迎えられる現代サーカスが絶対に失敗できないというプレッシャーから、感情が溢れてしまったのだ。

青かった…今でも身震いするほど恥じいる経験だけど、そのあとにチームの皆の優しさは心に染みた。

その頃から、「自分がやりたい公演」と「観る人に受け入れられるかどうか」のはざまで、公演を成功に導くための力量を発揮するのがプロデューサーであるし、それができなければプロデューサーとは言えない、と思っている。

「サーカス堂ふなんびゅる」の挑戦。

瀬戸内サーカスファクトリーが立ち上がる1年前、瀬戸内・香川に単身移住してすぐに「サーカス堂ふなんびゅる」という屋号で、個人事業を立ち上げた。
現代サーカスの発信基地、という謳い文句である。
基地、というところから、秘密基地的なニュアンスもあった。
じっさい、最初のころに行っていたことは、古いビルの屋根裏でお話会「千と一夜」を行っていて、インターネット告知の手段もないから、手書きのチラシをコピーして、ごくごく限定的な場所にチラシを置くだけの広報だった。
それでも、その秘密基地的な感覚が好きな人が集まり、ある意味マニアックな話をマニアックな雰囲気で聴けるということで、ほとんど広報しないにも関わらず、常に5~10人の聴講者がいたものだ。
なぜそんなに通ってくれたのか、いまだに不思議でしょうがない。

「ユニークネス(唯一無二)」で、多くの人を集められるか?

それがポップであろうと、マニアックであろうと、「ユニーク」と感じられるものが最上だと、自分は信じている。
問題はそれで、一発屋ではなく継続して発展することができるかどうか、である。
サーカス堂ふなんびゅるは、マニアックだったし場所の雰囲気はアングラ的ですらあり、
話している内容は、日本のどこでも、ほぼ、話されていない内容だった。(2011年当時、現代サーカスを専門家として語っている人は非常に少なかったし、自分はほかの人にない経験と知識があると確信していた)
それに対して「これは面白い!」と目を輝かせ、定期的に前のめりに聴きにくる人たちが高松に10人以上いた、ということだ。
それが、その後の瀬戸内サーカスファクトリーの主軸の人たちになってくるのだがー。

瀬戸内サーカスファクトリーを法人化し、社会の一員になった以上。

法人化した2014年以降にも、自分のなかで、「振り切る」ことの重要さを確信していた。
人に好かれるだろう、中心軸の幅の中で創作公演をしていれば、ある意味安心だけど、提案できる幅を自ら狭めてしまう。
その懸念から、わざと大きく振り、非常にポップなものから、芸能の源泉=被差別の歴史まで、表現したい、伝えたいことを幅広く作品の形で送り出した。

結果ー。
思いとは裏腹に、しんどい評価に晒されることになる。
人間の表現や思想の可能性を広げたかっただけで、「こうあらねばならない」と言った覚えもないけれど、その幅の振り方は批判に晒されることになった。
批判というより、見てもらえないこと、興味を持ってもらえないこと、のほうが辛かった。

プロデューサーという立場。

「仕立て屋のサーカス」を見た。
昨年、出雲公演の音楽で入っていただいた曽我大穂さんの「仕立て屋のサーカス」の公演を、初めて生で見に行けた、昨日。
見もせずに出演依頼したんかい!と怒られそうですが、自分のフィーリングは結構信用していて、大穂さんの世界とコラボレーションしてみたいと思ったし、ほんまに楽しかった。
その後、
「仕立て屋」を観てください。

という言葉に背中を押され、京都の公演を観に行ったのが、昨日。


ミシンのかたかたいう音(とても心地よい音)、
異形のように現れるミュージシャン、
何かを訴えていて、
会場は音の声を聴きとろうとする。
煙、光、音のバイブレーション、
トランスへと誘われ、会場にいる皆は、大穂さんの導く先をみたいと身を任せるー。

これは、自分がほんとうにやりたかったこと。
けど、表現者じゃないから、できなかったこと。
本当にそうだろうか??

自分は何かに負けていないか?
もっと強くしなやかに、すり抜ける方法はなかったか?
プロデューサーだからできない、と思っていなかっただろうか?(そんなのは嫌だ)

それでも、自問しながらも、アーティストに嫉妬して、羨ましくて、
けど、
自分とアーティストがうまく出会ったら、違う次元にいけるんじゃないか?

とかとか、頭に思考が駆け巡る。

もっともっと、プロになりたい。

何回も言っている気がするけど、要するに、もっともっとプロになれば良いんだと思う。
これもあれも、ぜんぶ超えて、吞み込んで、笑って、
温かく包み込めるひとになりたい。
本当のプロに。
違う地平を見せられるプロに。
その地平を、自己犠牲だけじゃなく、楽しむこともできる、プロに。

箍がはずれることすらできる、サーカスへ。

箍(たが)がはずれても、笑って、お客さんもHappyで、クリエイティブで
生きててよかった
と、思える場をつくりたい。
それはできるかな?
自分にできるかな?
誰とならできるかな?
結局17年前のGrimmの舞台の経験に戻ってしまうけど、
きっとできる気がする。


仕立て屋のサーカスをみて、そう思った。

瀬戸内サーカスファクトリーは現代サーカスという文化を育て日本から発信するため、アーティストをサポートし、スタッフを育てています。まだまだ若いジャンルなので、多くの方に知っていただくことが必要です。もし自分のnote記事を気に入っていただけたら、ぜひサポートをお願い申し上げます!