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あらためて自分たちのやっていることを考えてみること

Cover photo by Vincentiu Solomon on Unsplash

せとうち未来共創プロジェクトの第2シーズンは,プレローンチの昨年のような年間を通じてのクローズド気味なコミュニティではなく,いろんな産学地域連携のプロジェクトを取り込みながら,常にプロジェクトごとに関わる人も学生も入れ替わるというスタイルで少しづつ広がりを見せている.

それでも,普段の授業以外の時間で学生が何かに取り組む,というのはなかなかハードルが高い.例えばアルバイトはお金という目に見える対価としてリワード(報酬)が与えられるから動機が作りやすい.一方で,ボランティアや自主活動的なものへ時間と労力を費やすには,だれでもそれなりに「報酬」を求めるのは実に現実的でまっとうな考えだと思う.問題は「報酬」にもいろんな形がある,ということを伝えられるかどうかにある.

クラブ活動の場合はどうなのだろう.そこには単純な「対価」とは違うモチベーションがあるように思う.サッカーでも野球でもバスケでも吹奏楽でも美術でも,それが何であれ,それが好きだ,ということがきっとそのモチベーションの中心にある.もちろん,将来的な期待や,モテるかも,という動機だって作用しているかもしれない.いずれにしても「内的動機」に基づいているのは確かだと思う.

これが不思議に「学校で学んでいること」や「仕事」になると,「内的動機」という点から考えると,おそらく最初はあったはずのそれが,時間や経験と共に薄れていき「将来のための我慢」や「給料のためにやらなければならないこと」というフェーズに移りやすい,そしてそれが常態化しやすい,という構造があるのではないかと思う.

労働対価としてのお金には「消費」への欲求があるからこそ,そこに人は価値を感じるのだろうと思う.一方で,クラブ活動の対価は何だろう.将来にペンディングされた「にんじん」だけだろうか?つまり,今はもらえないけど将来もらえるであろうはずの対価へのモチベーションだけだろうか?おそらく答えはノー,ではないか.だとすれば,なぜ若者はクラブ活動に打ち込むのか.

話が長くなるのでいま僕が考えている結論をいうと,労働に費やした時間をお金に変えるのが一般的な「報酬」だとすれば,いっぽうで,「時間」を「経験/体験」として受け取る「報酬」だってあるはずだし,多くの人はそれに気付いてもいるだろう,ということ.お金は変換された時間でしかない.そして物理法則から言うと,変換される時には必ずフリクション・ロスが起きる.太陽エネルギーを電気に変換することも実は相当なロスを生んでいる.そう考えると,労働をそのまま経験/体験として受け取ることは等価交換に近いのだと思う.つまり,お金にならない,プライスレスな価値を「学校で学んでいること」や「仕事」に感じられるかどうかは,個人のウェルビーイングにも大きく関わる問題である.さらに,その経験/体験を得ることで,それを使って副次的な価値を生むことさえできる.

そのためには「楽しい」ことが大きなモチベーションになる.そして「楽しむ」ためには「自分ごと」にする「自分のプロジェクトにする」ことがポイントになる.やらされることではなく,やりたいことにする.ただ,ここにももう一つの落とし穴がある.言うは易し行うが難し.そのためには,面白みを見つけるという才能が必要になる.そして面白みは「やってみるまで分からない」ことが多い.もしくは「視覚的感覚的に何かに共感してやってみたくなる」「やってみたら面白かった」の連鎖を起こすしくみがいる.

じつは,ここに学校や先生の新しい価値と居場所があると思っている.なぜいま,先生はファシリテーションができないといけないのか,メンターシップを持って学生と対話が必要なのか.僕ら(学校)に出来ることは,究極的に言えば「機会提供」なのではないか.そうすると,既定路線のカリキュラムや授業とは別の「予期せぬ出会い」的なものを提供する,そのバリエーションや深さ,完全にコントロールできないまでも注意深く計画された偶発性,その質と量が大事なのだ.

話が堂々巡りになるのだけれど,それこそが「せとうち未来共創プロジェクト」の本質的な存在価値なのではないか.

そして,それを噛み砕いて,断片的にでも良いから「面白そう」と思ってもらえること,それに向けていろんな手を打とうとしている.

その一つが,せとうち未来共創プロジェクトを視覚化したロゴや愛称といったインターフェイス,そしてそれがさらに物語を紡ぐためのwebを中心としたプラットフォームの構築だ.

現在,実力派のクリエイターと共にそれらの案件を進めている.そして,当然のように,その案件自体に学生や先生を巻き込もうという方向性になった.このダイナミックですべてを包含していくうねりのようなものそのものが,せとうち未来共創のエネルギーだと思う.そして,この混沌とした探究的なアクティビティこそが,現実社会をクリエイティブに楽しく泳ぐためのスキルを身に付けるための場所に違いないのである.

明らかなのは,「楽しい」は「ワクワク」と密接に結びついていること.先生が楽しんでなければ学生だって楽しくないだろう.卵が先か鶏が先か,という問いの前に自分が楽しめば勝ちなのだ.学生と先生が楽しんでいれば,学校は楽しい場所になるはずなのだ,今よりももっともっと.



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