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積読を買いに

親戚の結婚式で上京したという友人に会う機会があった。実に3年ぶりの再会だ。前回はわたしが最後に帰省した時に会った。
人格形成期にあんなにも毎日一緒にいたのに、地理的に離れると全然会う機会がない。特に昨今の感染症のせいで帰省も喜ばれない。久々の再会がとても楽しみだった。

彼女とは、地元で中・高時代を一緒に過ごした。ふたりとも小説が好きで、一緒に図書委員を務めたのが仲良くなったきっかけだ。

彼女とわたしの小説の趣味は、今思えばけっこう違った。私は外国文学と、その影響を受けた日本の現代文学が好き。一方で彼女は古典と歴史ものが好きだった。でも互いに気にせず、自分の趣味のものを押し貸しし合って6年間を過ごした。平日で飽き足らず、週末も誘い合って図書館に足繁く通い詰めた。

友人が宿泊するビジネスホテルにほど近い、オーセンティックなホテルのラウンジで落ち合った。友人が「東京に行くからにはアフタヌーンティーに行きたい」と言ったからだ。
ここ数年、平日の疲れで週末をアクティブに過ごすことができていなかったので、こうして呼び出してもらえるとありがたい。

わたしが地元のことについて根掘り葉掘りきき、友人が答える。あの子は最近子どもができたよ。今あの子とあの子は同じところで勤めてるよ。あの人、地元のテレビに出てたよ。

3段の皿に乗ったスイーツを食べ進む内、再開発の話題になった。
「再開発してるんだって?」
「うん、図書館も少し新しくなったよ」
「古かったもんね」
「個人的には前のほうが落ち着くと思ってたけどね。最近は何読んでる?」

本の話題になるのは、わたしたちであれば当然の展開だった。しかしそう聞かれて、わたしははたと困ってしまった。今週末読まねばいけないビジネス書が数冊頭に浮かんだが、
「何も読んでない」
と答える以外にないとはたと気づいたのだった。

大学で上京し、就活戦線をなんとか生き延びて入った会社は、とても忙しかった。
文学少女だったわたしは「自分は本当に社会に馴染めるんだろうか」と疑問に思っていたのだが、働き始めてみると意外なほどなじめた。資料を探し、プレゼンを作り、愛想よく振る舞いながら要求をねじこむ。そうすると、毎月決まったお給料が振り込まれてくるのだった。
しかしまじめにやればやるほど、次の仕事がやってきた。それは評価されているからこそ与えられるものであり、光栄なことらしかった。いつしか平日に余暇はないものと思って暮らすようになった。

休日も自分の趣味のために本を読む時間はなかった。
経営陣や上司や同僚が挙げた本を電子書籍で買い、目を通した。じっくり読む時間はないから、目次を読み、章の最初と最後を読み、気になる部分だけ少し深掘りして読むような極めて実用的な読書だ。「わたしは本が好きだから、たくさん本を読むのだ」と自分に言い聞かせながら、追い立てられるように目を通す。
毎週自分で自分に課したビジネスライクな読書を終えるころには、更に趣味の本を読みたいという気持ちは消え失せている。物語を消費したいという気持ちだけがぼんやりと残り、動画配信サービスをぼんやり見て過ごすと週末が終わる。

「読んでないなあ、何も……」
友人は少し意外そうな顔をしたあと、
「おとなになると読まなくなっちゃうよね」
と言った。
「そうだね」
と答えた。

帰り道の地下鉄の中で、わたしはこの会話を思い出していた。
わたしが本を読まなくなったのは、おとなになったからではなくて、忙しすぎるからなんだけどな。

では本当は何が読みたいのか。
そう自問してみて、ぞっとすることに小説の積読が一冊もないことに気づいた。
積読がないだけではなくて、かつてあった「あれもこれも読みたい」という突き上げるような気持ちが、心のどこを探してもないのだった。

唐突に、何もかもばかばかしくなってしまった。積読の一冊もない、こんな人生はまるでだめだ。
仕事で評価されようが、経済的に安定していようが、周囲に褒められようが、読みたい本が一冊もないような人生はだめな人生。経済的に困窮しようが、孤独死しようが、読みたい本があってそれを読める人生がいい人生だ。

こうしてわたしは仕事を辞め、積読のたんまりある人生を目指すべく、本屋めぐりをすることにしたのだった。


※この文章はセミフィクションです。今後登場する書籍・書店・ブックカフェは実在しますが、それ以外は「わたし」含め実在の人物や団体などとは関係ありません。


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