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街中で続いてく暮らし


コロナが広がって2年を経過し、暮らしはすっかり様変わりした。

中高生のころ、60年代・70年代の学生運動の映像や雑誌などの資料を見るたびに、「反抗できるほど恵まれてるってなんかのんきだなあ」と思ったし、「深夜特急」を読みながら「帰れる家があるエリートの発想だな」と斜に構えていた。
なので、小沢健二の「ぼくらが旅に出る理由」を初めて聞いた時、「街中で続いてく暮らし」という歌詞で思わず泣いてしまった。子供のころはあぶらだこ原爆オナニーズが好きだったのに、まさか渋谷系で泣くとは、と自分でも驚いた。
のんきなサラリーマンをしながら社会科学の研究に片足のつま先をほんのちょっと突っ込んでいるのは、やっぱり人間の生活に興味があるからだ。人間は、人間が作ったルールで社会を構成して生きていく。自分たちで自分たちを縛り、時に赦し、なんだかんだそうやって生きていく。
旅に出たっていい、コタツから一歩も出ないで一日過ごしたっていい、お金持ちになったっていいし、ならなくてもいい。ランジャタイみたいになっちゃったが、まあ、なんだっていいんだよ、と思うし、一方で、そう思えるって自分がいまは喫緊の困難に陥っていないからなんだろうな、と自省しつつ。

毎夏に放送されていた「火垂るの墓」の影響もあるのかもしれないが、子供のころから戦争孤児という環境の過酷さを考えると胸が痛くなる。もしかしたら自分は両親の子供ではないのでは、という子供らしい妄想はだれしも持ったことがあるだろうから、その延長というとそうなのだろう。
子供という不利な状況で庇護者も奪われたら、いったいどうやって生きていけばいいのか。そして、今も世界のいたるところでこの状況にあっている子供たちがいるということにまた愕然とする。悩んだりすることすらできない状況を、自分の力で何とかなんてできるわけない状況を、自分以外の決定のせいで強いられているのだ。


天才柳沢教授の生活
小学生の頃だったか、商店街にある工場の2階に住んでいた私は、向かいの本屋に、時に車に引かれ足りしながら毎日立ち読みに行っており、その時に出会った「スカイブルーへようこそ」というマンガに衝撃を受け、それ以来山下和美のファンだ。「マーガレット」掲載の少女漫画で、初潮を迎えるシーンがコミカルながら丁寧な心情とともにいきいきと描かれており、マンガって、表現ってこんなに自由なんだな!と驚いたのだった。
山下和美に数々の傑作はあれど、とくに有名なものというとこの「柳沢教授」シリーズ。ドラマ化もされたし。文庫版で言うと10巻~12巻あたりは、戦後柳沢教授がまだ学生だった頃の話で、戦災孤児を集めて勉強を教えながら、教授が”教授”(=研究者であり教育者)になっていく背景を、当時の闇市の様子なども含めてスリリングでコミカルで生き生きと山下和美らしく描いている(「あれよ星屑」のようにジョン・ダワーの名著「敗北を抱きしめて」をほうふつとさせつつ、あくまでもなんというかカラっとしている)。
誰でも子供だったし、大人になる過程で何かを捨てたりあきらめたりすることを強いられる必要はないんだ、という清々しく力強い章だった。


この世界の片隅に
NHKの名作朝ドラ「カーネーション」もそうだが、歴史は地続きで緩やかに変化していくのだろう、きっちりと「戦前」「戦中」「戦後」があって、実際の生活では「ハイ今日から戦中です」という風にはならない。大正時代のモボモガたちがいた一方で第一次大戦は起きていたわけだし、日米開戦が始まっても、日々笑って過ごす市民たちがいたわけで。そんな日常が少しづつ変化していく様子を丁寧に描いたこのアニメーションは、それをとても美しく残酷なまでにほのぼのと描いている。最後、右手を失った主人公と、右手のない母を思い出す戦災孤児との出会いは何とも自然で、こういう家族や親子やいろんな人々がいたんだろうな、と素直に思えて、なんというか美談にまとめず普遍的な風景になっていたように思う。


カムカムエヴリバディ
3世代の女性が主役という異例の朝ドラらしいが、2章の主人公は裕福な繊維業の長女であるにもかかわらず父親のいない中で生まれさらに母親を失っている。どちらもアメリカに奪われた、と本人の立場なら思うだろうが皮肉なことにそのアメリカへの、アメリカのジャズへの想いから自身が名づけられている。出会う運命の男性は、戦争孤児として苗字の記憶もないまま運よく助けてもらったジャズ喫茶のマスターから名付けてもらい人生をスタートした。お互い、戦争によって親を奪われた子供だ。
※このドラマのすばらしさは数々語られているが、個人的なMVPは早乙女太一!市川実日子が名作「すいか」からずっと時を止めており、オダギリジョーも同じく令和版加藤剛(ずっとおんなじ髪型で年を取らない、って意味!)だが、そこにリアルな若者であるはずの早乙女太一が謎にバタ臭いというか昭和感が強くて絶妙にバランスをとっている。


大豆田とわ子と三人の元夫
カルテット」を途中で断念した一方、「Mother」は号泣したので、脚本が苦手というより脚本をいい感じに演出してもらっていれば見られそうだな、と思いつつ、カルテット臭がうっすらしていて後回しになっておりようやくみたら、カルテット臭はするものの、撮影とキャスティング、ファッションの小粋さなど全般的なプロデュース(?)がとてもよくできていて、この週末で3回見てしまった。ここでも市川実日子・・・。すごいよ~。
毎日を大切に幸せをあきらめずに生きていく、っていう大人たちの生活の中で、三人の父(2人は母の夫だが)と生活を共にした娘。うがった見方をすれば、早く成長することを強いられた子供だ。初回冒頭で「私はすくすく育っている」とわざわざ言っているが、この時点でまだ中学生の設定。反抗期真っ最中の中学生が、母親を安心させようと取り繕っているさまは、「ジュディ」でも書いた通り、胸が苦しくなるよ・・・。
完璧な親など存在しないので、結婚も離婚も何度でもしていいと思うけど、子供が子供でいられない状況、は上の「カムカム~~」でも書いた通り、裕福かどうかは関係がない。では、親が揃っていれば幸せか、というとそれはそれで、存在自体が幸せの担保になるわけではない。家族は幸せでなければ、とも思わない。ただ、子供は自身の生活をコントロールできない存在であり、ただそこに生まれただけなのにその重荷を背負わせるのは酷だ。


いま、子供たちは元気に暮らしているだろうか。自分に子供はいないけど。コロナも災害と考えると、そう思わずにはいられない。教育の機会もそうだし、いまだと受験か。遠足や行事、卒入学式、いろいろ機会を逸したことだろう。災害時は弱者から先に困窮する。コレラが蔓延した19世紀パリ・ロンドンにおいて、下水道が発達していない不衛生な環境から被害の多くが貧困層で合った点から、被害者である貧困層が加害者として扱われる、高額医療が実際の罹患者には行き届かない、といった現象などが発生した歴史を参照すると、こうした場合は単に医療だけでなく政治学・社会学などの視点での検証・検討・対応が重要だ。


街中で暮らしが続いていく、その平和な風景のために今できることって何かなあ、とぼんやりしつつ結論は出ない。だから研究をつづけるし人生も続いていくし、歴史もそうやって続いてきたんだろう。
(そういえば、ピチカート・ファイブには「戦争に反対する唯一の手段は。」というアルバムもあるし、渋谷系ってそういう感じだったのかもしれないな。)

以上、子供をめぐるエンタメコンテンツから思い出しメモ。


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