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DINKsが考える勧善懲悪

悪い奴を懲らしめることを善なものとする物語。子供向けの戦隊ヒーロー物語から、大人向けのアニメ・ドラマまで様々な物がある。

個人的に、悪いことをした人間や、卑劣なことをした人間に、それなりの報いがある結末は嫌いではなく、傷ついた人間、不利益を被った人間、自由を拘束された人間が、自由を取り戻すことで終わる結末が好きだ。

ただ、誰も報われない、何も起こっていない、起こるはずがないような前提の世界に、無理やり善悪の概念を持ち込み、悪いものを成敗することを快感と捉えるような作品にはあまり「好き」を感じない。

悪役は何が悪役なのだろうか。正義の味方は一体何を根拠に正義なのか。アンパンマンはバイキンマンという悪役を懲らしめる。アンパンチという名の殴り飛ばしにより、悪役は空の彼方へ飛んでいく。あの勢いで飛べば、地面に叩きつけられて衝撃で死ぬだろう。鬼滅の刃、戦隊ヒーロー、あらゆるものが暴力により悪を退治する。鬼滅の刃に至っては、目を背けたくなる残虐なシーンが繰り返される。死ぬだろう、でなく、死んでいる、死ぬことが確実であるような暴力により、悪が駆逐されていく。

悪役は何か悪いことをしてこそ、悪役なのだと思う。アンパンマンの例で言えば、ただバイキンマンが道を歩いているだけで、悪役扱いされるのはおかしいわけだ。バイキンマンが何か破壊行為をしたり、人に損害を与えることにより、初めて悪役になる。悪役が悪いことをするからこそ、正義のヒーローはそれを罰する理由を獲得する。

この構造になっているかどうかが極めて重要だと思う。バイキンマンが現れただけで「バイキンマン!何か悪さを企んでいるな!」と、大衆が非難を浴びせたらどうなるだろう。バイキンマンも社会に打ち解ける術をなくし、暴力的、破壊的、破滅的行為に走るしかないかもしれない。そこで正義の味方が現れて、大衆の言い分に従って悪役を殴り飛ばす。悪役がいなくなってよかったと大衆は安心して終わる。悪役は山中に不時着して、飛行機の墜落事故のように焼死しているかもしれない。

悪いことをする者が毎回決まっていて、悪いことをすることが予定されていて、それを同じように正義の味方が駆逐する。大衆は何もせずに正義の味方が解決してくれることを望み、その傘下に身をおいて安全を確信しながら「あ!悪者だ!出ていけ!」と、悪者が悪さをする前に煽り文句をぶつけ、悪さをする前の悪者が反応や反射した途端に、被害者ぶって正義の味方を呼ぶ。

一体、トラブルを起こしているのは誰なのだろうか。悪者が悪さをするのは、自らの意志によるものが大半であるとして、数パーセント程度は、群衆・大衆の扇動により、過激な行動に至ってしまうものがあるかもしれない。そうであれば、強い者に依存して去勢を張っているだけの群衆が最も悪質ではないだろうか。

そもそも、物語において、悪者や悪さが発生することは必要なのだろうか。ただ日常がすぎて、穏やかな日々が過ぎて、それで終わりではだめなのだろうか。ブラタモリや世界ネコ歩き、孤独のグルメのように、ただ、穏やかになるだけではだめなのだろうか。

鬼に豆をぶつけずに、排除されている鬼に恵方巻きを分けてあげたり、一緒に豆を食べるストーリーやイラストを、ネットで多く見かけるようになった。節分の空気が少し変わっていることを感じる。

悪者とは何なのか、悪者がいないと正義は存在できないのか。だとすれば、無理やり誰かを敵にして叩くことでしか、正義は生まれないのか。非常に危険な社会であるように思えるのだ。

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