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親友との出会い③友情の始まり



エジプトへの憧れ


プロイセンが早々に戦線を離脱し、オーストリアとドイツ諸邦を打ち負かした今(1797年)、フランスの当座の敵は、海の向こうのイギリスです。

総裁政府は、イタリアの勝者ボナパルトに、ブリテン島遠征を期待しました。

しかし、イギリス海軍に対し、フランス海軍は勝ち目がない。だったらエジプトへ向かい、そこからイギリスを牽制した方がずっといい。

ボナパルトはそう考えました。
エジプトは、彼が制覇したイタリアの対岸です。そんなことからも、エジプトに対し、親しみを覚えていたのでしょう。

この時期のドゼのメモには、
「...エジプトの状況、手段、富についての会話。フランスがそれを引き継ぐことの有用性について……」
「スエズ運河」
「教養ある人たち」
などのワードが見られます。どうやら、エジプト遠征に関する学者を交えた会議に、ドゼも出席させてもらったようです。

ところでボナパルトは、遠征先について、ごく上層部の将校の他は、エジプトの海岸が見えてくるまで行く先を秘密にしていました。それが、会ったばかりのドゼに早々に打ち明けたばかりか、会議まで出席を許したのです。
 → 1797年夏、エジプトへの布石

これは、なんだろうな。 
私は、ボナパルトは自分の計画に自信がなかったのだと思います。ぽろっと手紙に書いたエジプト遠征に、外務大臣タレイランが賛同し、話がどんどん実現化していく……そんな恐怖があったのだと推察しています。

もっともタレイラン、そして総裁バラスは、軍の実力者であり、結果、必然的に民衆の人気を勝ち取ったボナパルトを、ブリテン島、あるいは違う大陸に追い払いたかっただけかもしれません。その辺りも見抜き、ボンパルトは不安に感じていたものと思います。
 → そしてボナパルトはエジプトへ

そこへ、思いもかけず、自分から訪ねてきた「ライン軍の勇者」ドゼが、エジプト遠征に賛同してくれたとしたら。ボナパルトの心強さはいかばかりだったでしょう。
ドゼがいれば、うるさい総裁政府のあるパリを離れ、好き勝手できる!
そのような発想の転換があったのではないでしょうか。

「偉大な評判は東洋でのみ築かれる。 ヨーロッパは小さすぎる」
ボナパルトの言葉です。

ギザのピラミッド
Ricardo Liberato - All Gizah Pyramids, CC


ドゼが最初からエジプト遠征に賛成したというのには、根拠があります。

イタリアからの帰路、ドゼがボナパルトへ送った手紙には、彼のプロジェクト(エジプト遠征)を讃え、是非、自分も参画したいと書き添えています。

また、後に出航地チビタ・ベッキアからボナパルトへ宛てた手紙には、ギリシャ神話の英雄イアーソーンを引いたりしています。イアーソーンは、学者のモンジュが言い出したらしいですが*、こうした古代の英雄が、ドゼの頭にあったことは否めません。
 *→ 出航

ボナパルト自身も、ベルトラン将軍に次のように語っています。

「栄光に飽くことなき彼(ドゼ)は、この芸術と科学の発祥地(エジプト)を征服することに伴うすべてを知っていた。 テーベ、コプト、フィラエという名を聞いただけで、彼の心臓はじりじりと焦がれる気持ちで高鳴った」

遺跡の柱
Roland Unger, CC


少年の日の夢


そもそもドゼもボナパルトも、海軍将校志望でした。いや、本心では、かっこいい騎兵に憧れていたのでしょうが、騎兵はお金がかかるものですから(馬を飼える収入がなければいけません)。

次善の策として海軍将校を目指したわけですが、ドゼは数学の点数が足りなかったらしく、海軍将校養成学校を受験させてもらえませんでした。ボナパルトの場合は、士官学校卒業の年に海軍の募集がありませんでした。

それで、ドゼは歩兵将校、ボナパルトは砲兵将校への道を、それぞれ進んだわけです。誠に、置かれた場所で咲きなさいの典型のような、その後の人生ですね!

ところが今ここで、海を渡る遠征によって、二人は、少年の日の夢を叶えることができるわけです。

エジプト遠征の計画を機に、ドゼとボナパルトの間に友情が芽生えたのだと、私は推測しています。
 

フリュクティドールのクーデターについて


そのくせボナパルトは、この年の秋にクーデター(1797 ; フリュクティドールのクーデター)を起こし、議会の王党派を一掃する計画については、ドゼに内密にしています。

このクーデターのターゲットには、かつてのライン軍総司令官ピシュグリュも含まれていました。何も知らないドゼは、この後、上官モローの日和見に巻き込まれ、ほんの短期間ですが、ライン・モーゼル軍将校の職を失っています。
 → フリュクティドールの余波

王党派議員逮捕に向かうオージュロー
王党派議員逮捕に向かうオージュロー

この後、軍の再編が行われ、疑いを解かれたドゼは、ライン・モーゼル軍とサンブル=エ=ムーズ軍が合わさってできた「ドイツ軍」右翼の総司令官に任命されます。いわば、旧ライン・モーゼル軍の総司令官です。

ところが彼は、数日でこの名誉ある地位を捨て、ボナパルトの下に創設された「対英軍」の第二指揮官の地位に下ります。

ドゼの畏友サン=シルは、同年春の戦いで負傷して療養中だった時、ドゼが次のように言っていたと証言しています。

モロー(二人の直属の上官)は偉大なことをすることはないだろうし、我々は彼と一緒に退屈な下役を演じることしかできないだろうと確信している。もう一方(ボナパルト)は、非常に明るく輝くように作られていて、非常に大きな栄光を手に入れて、彼の中尉たち lieutenantsに反映することができる」

モローに対して愛想の良かったドゼが!(療養中、動けるようになるとドゼは、モローの馬車を借りて、女の子達と遊びに行ったりしていました)
野心とはまるで無縁だった戦友の言葉に、サン=シルは、ひどく驚いたと言っています。

この信念のもとに、ドゼはイタリアを訪れ、ボナパルトの友人となりました。
そして、エジプト遠征に同行した、という流れになります。


ところで……


なぜドゼは、それほどボナパルトを見込んだのか。そもそも、本当に彼を見込んだのか。
そして彼がエジプト遠征に参加したのは、古代のロマンへの憧れからだったのでしょうか。

私の考えは、小説の中で。

小説へのリンク

根拠の史実はブログで
 → カテゴリ;エジプトからマレンゴへ





「1797年夏、親友との出会い」各話リンク


親友との出会い③友情の始まり(本記事)


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