見出し画像

【雑感】伊勢谷友介とテレビ放送(Ⅰ~Ⅲ)

 美と善。ギリシャの昔から論じられているこの絶対的価値。しかしその次元は現代ではもっぱら表象の領野に閉じ込められて、「イメージ」という表象的直観が猛威をふるっている。新実在論者マルクス・ガブリエルの言うように(世界史の針が巻き戻るとき、PHP新書)我々の認識はいま、現実から乖離し、イメージがその大いなる基盤となっている。現実を捉えるのは、本来、理性の仕事であったけど、それ対する信用が失われたせいで、あるいは単なる怠惰というべきか、替わってイメージが、宗教的真理がかつて我が物顔で世界を描いていた時代以来、再び現実認識を支配している。

 そこにはまた、こんな常識がある。すなわち、イメージというものは現実に先行するものであって、努力することによって、人はそこへ到達することができる、というものである。しかし常識はどこまでも常識であり、これといって根拠はない。根拠はないが、帰納的に人はそう信じている。いわばイメージとは、現代においては可能的現実の資格を得ているのであって、ガブリエルがどれだけテスラの今現在の現実的な市民権を否定しようとも、テスラは間もなく現実に世界を席巻し、ガソリンスタンドに寄る人の姿は稀になると、あたかもヒトの赤子がヒトにしかなりえないのと同じくらい確実だと信じていて、そう表象される未来はすでに現実そのものなのだ。

 ここで一つ、異議を申し立てるとしたら、たとえば200年前、かのベートーベンが第九を作曲した当時、彼の頭にあった未来(彼にとっては既に現実的だったろう)のイメージと実際の現代は大いに異なっているだろう。要するにイメージとは、人が日頃信じているほどには当てにならないと、日常においてもそんな事例はいくらでも探し出すことができ、理解しうるのだが、どうも現代では、それが困難になっている。というのは、強固な現実性を帯びる感覚的直観を、理性による弁証法なしに、直にイメージを媒介することによって象徴的に解するなら、イメージを否定することはそのまま真実を否定することと同義なのであるから、イメージを否定するためには多大なエネルギーが必要となるのだ。さりとて、より広く背後の現実を捉えようにも、やはりイメージの感性的手段によってしかできないものだから、容易に陰謀論と結びついてしまうのだ。


 そして冒頭の善と美の絶対的価値の現実性においても、我々は理性ではなく、イメージに頼って理解することしかができなくなっているという訳だ。ここでようやく、私は、具体的個別的な社会問題、つまり伊勢谷友介の大麻問題とテレビ放送における善悪を論じられるだけの勇気を得られるのだが、結論から言えば、彼をばっさり切ったところで、私個人におけるそのスポンサー企業のイメージが上がることはないし、逆に切らなかったとしても、もはや下がりようがない、というのが、なんの権力もない一人の消費者かつ少数派たる私個人のなかでの主観的な認識ということだ。

 その訳と言えば、CMやドラマが企業の集めてきた原資をもとに製作されている点で、とにかく彼らは自社のイメージを高め、善なる企業、いと美しき企業として承認され、現実的な市民権を得ること、維持することで、投じた元本よりも多いリターンを期待しているのだ。そうして集まってくる金を再び投資し・・・といった具合に、しかし実際のところ、それらがどうやって集まってきたかといえば、決して人々が、あるいは当の企業自身がイメージしているようにはクリーンじゃない。つまり、自社のクリーンなイメージを世間に植え付けたいと必死につくったクリーンなはずのCMやドラマが、その根本においてどれだけクリーンなのか、すなわち、伊勢谷友介の大麻使用を言語道断ときっぱり否定しようがしまいが、もともとそれは大した清廉性などないのではないか、という疑問の余地は宇宙のように広大だろう。

 我々の各自がそこから生の糧を得ているところの経済基盤、あるいは実際の貨幣は決して歴史から切り離されてはいない。蓄積された富は、突然、我々の世代に生まれ落ちたものではない。否応なしにそれは、植民地主義、帝国主義時代のころから脈々と受け継がれてきたものであり、搾取と酷使の賜物であり、一国内で広がる現代の格差にしても、そうした構造が必然的に形を変えて現れているにすぎない。現代的な事情を捨象するにしても、我々の財布に入っている一枚の千円札には、すでに血みどろの歴史と悪が凝縮されているのだ。だが我々は日頃、そんなことには少しも気を配らず、何食わぬ顔で消費している。

 もし、本当に我々が、一切の邪悪を排除し、清廉を保ちながら大真面目に生きなければならないというなら、その点についての配慮は絶対不可欠に違いないのに、誰一人そんなことは考えもしないで、自らの潔白を信じているのである。筋を通し、一貫性を維持するには、我々は千円札を店員に渡す前、あるいはカードを切る前に、我々は札やクレジットカードに対して、大和田常務ばりの土下座をするべきだが、そんなことをしたいと思っている人は皆無だろう。


 そんな札が企業の手元に何億と集まれば、見るもおぞましい何億という搾取の集積の結果なのであり、今は表面上、当然の倫理によってパワハラ的酷使による搾取は抑制されているものの、労働者がやむを得ず自分の大切な時間を安売りしていることに変わりはない。
 捉えようによっては、企業が提供するドラマという娯楽は、せめてものの贖いなのかもしれないが、あるいは免罪符のつもりか、しかし皮肉にもテレ東のドラマ『死役所』では、虐待死した女の子が、虐げられていることに気がつかず、死後も母を信じて疑わない純粋さが描かれていて、松岡昌宏扮する主役・シ村がそんな女の子のピュアに対して、ぼそりと小声(確か)で「洗脳でしょう」と水を差すのだが、提供されるドラマの清廉性や善性で企業の美的イメージを信じ込むのは、まさしくこれと同じことだろう。

 さて、次に、俗に常識人が心配しているところの、大麻がファッション性を得ることで人を誘惑してしまう、だから放送すべきでない、という論調は私のもっとも嫌いな詭弁であるが、大麻を使っている人間がテレビに出ているから大麻はいいことなんだと安易に考えるバカ者は絶対100%確実に少数であるし、そんなおつむの弱い人は、伊勢谷がテレビに出ようが出まいが結局薬中になっているだろうし、大麻が必ずしも良いものではないとの情報はググればいくらでも出てくるのだから、ほとんどの人間はその程度のことで「大麻は悪くない、じゃあ真似しよう」とはならないのであって、偉そうな顔をしたパターナリズムと、自分以外をバカだと思っている傲慢な自己満的偽善に私は辟易している。

 以上、してみれば、もはや伊勢谷友介を排除するかしないか、その根拠は法を犯しているかいないか、という形式主義に依拠することになるが、その場合、結局は、おそらく保守的で道徳的にも厳格だろうその口の彼らもここでは、「法に触れていないならオッケー」という自由主義をダブルスタンダード的に適用せざるを得ないのだから、ほとほと呆れてしまう。

 ひっくるめて言えば、ドラマやCMが経済活動の一環でしかないなら、そこに究極的な善とか美などというものは存在しないのであって、ただただ欲望と金、娯楽、労働者の権利闘争があるのみで、そんな空間で企業の側が模範的な善や美を演じようとするのはいかにも胡散臭いし、観る側の大半を占めるだろう被用者たちが権利以上の善や芸術的な美をそこに求めるのもお門違いなのである。
 そもそも、こういう問題があってから時効のとっくに過ぎているような人の過去を掘り返すことが本当に倫理的に正しい振舞いなのか疑問に思うべきなのに、多くがそれを当然のごとく受け入れて「サヨウナラ」などと、一体どの口が言ってるんだと思わずツッコミたくなるが、そんな醜悪な現実が蔓延して矛盾に満ちているなかで、我々は何を求めているというのだろう。

( ´艸`)🎵🎶🎵<(_ _)>