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「いかなる花の咲くやらん」第12章第2話 「母の悲しみ」

曽我の里へ訃報が届いた。この知らせを悪夢と思いながらも母は形見の品を目の前に嘆いた。
「共にあの世へ参りたい。一緒に参ります。置いていかないで。十郎、五郎」と泣き叫んだ。そこへ頼朝の使者として、甲斐の国へ行っていた蘇我祐信が帰ってきた。子供たちからの二通の手紙を胸に抱き、読むこともできず泣き続ける妻を前に、おろおろと立ち尽くすばかりであった。その祐信にすがりつき、「これらの小袖は、最後に身につけておきたいと、欲しがったものを、私はすぐに返せと言ってしまった。なんと心無い。五郎の勘当も、最後と思うから十郎が強く許しを乞うたのに、全く気付かなかった。 すぐに戻ると言ったのに」と泣き狂った。「五郎、五郎、そこにいるのでしょう?」と辺りを見回しながら「本当の勘当ではないのですよ。あなたの祐経を憎む気持ちを、神仏に和らげてほしいと、権現様にお預けしたのです。それなのに勝手に元服して。私は悲しかったのです。怖かったのです。こうなってしまうことが。
あなた達の様子は二宮の姉さんから伺っていましたよ。早く勘当を解きたかったけれど、なかなかきっかけがなく。五郎、ごめんね。ごめんなさいね」母は兄弟の後を追おうとしたが、祐信が「そなたが兄弟の後を追うならば、私はそなたの後追いますぞ。それでも自害なさるとおっしゃるか」と言うので、母は何とかこの世にとどまった。
数日後、伊豆の国の小川三郎が、兄弟の首を持って曽我を訪ねた。二人が愛した花園で荼毘に付した。また、いとこである宇佐美禅師が二人の遺骸を火葬して曽我へ届けた。「子供たちが帰ってきたのに、こんな姿だなんて」と、母はますます悲しみに明け暮れた。
曽我祐信が頼朝に呼ばれ、鎌倉へ参上した。兄弟の養父としてどのようなお咎めがあるかと、恐る恐る参上した祐信に、頼朝は優しかった。
「五郎殿の最後は立派であった。もし早くに召し抱えることができたら、事態も変わっていたであろう。気遣ってやれなかったことが悔やまれる。十郎殿の最期も、見事であったと聞いておる。母親はどう暮らして居るか?」
「はい、母親は、半分死んだように気が抜けて惚けております。」
「母親の悲しみはさぞかしであろう。今から後、曽我の荘の年貢は免除する。兄弟の供養のために使うがよかろう」
とねぎらった。祐信は、妻にこのことを伝え、追善供養のために堂を建てることにした。供養に励むうちに嘆きも少し和らぐであろうと考えた。
ところが母の嘆きはこれだけではすまなかった。兄弟には、もう一人弟がいた。伊東の父が亡くなり、母が曽我へ輿入れするおり叔父の伊藤九郎の養子になった。今は国府に住む伊藤禅師である。「兄達は親の仇を討って、同じ場所で死んだのに、私も同じ兄弟であるのにどうして一緒に死ななかったのだろう。大恩教主釈迦牟尼様、兄達を助け、私もともに浄土へ往生させ給へ」と言って刀を自らの腹に突き立てた。
その頃兄弟と父を違える兄、小野庄治郎は由比の浜で他人の仇を討とうとして、重傷を負って亡くなった。母はわずか百日の間に四人の子供を失ったのである

参考文献 小学館新編日本古典文学全集53曽我物語
次回 「心が通う虎御石と母」に続く

途中から入られた方には、第1話からお読み頂けると幸いです。

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