「名前の哲学」~ヴィトゲンシュタインが考える固有名詞
本日は、「名前の哲学」(村岡晋一著)を読みました。
選択的夫婦別姓を目指す夫婦は、それぞれの氏名、すなわち固有名詞を変更したくない、という想いを持っています。
なぜそこまで固有名詞にこだわるのでしょうか?
少しだけ哲学の議論を借りて、考えてみたいと思います。
1. 「実体」か「記述集合」か
まずは、固有名詞に関する一般的な議論を簡単にまとめたいと思います。
固有名詞が意味するものは何かに関して、大きく分けて①実体、②記述集合、の2つの考え方を紹介します。
①実体、とは、固有名詞が何か存在するものを指し示す、という考え方です。
例えば、飼い犬の「チロ」といったときに、飼い主やその家族、友達であれば、特定の犬を思い浮かべることができます。
ミルもこういった考えを持っていて、
我々はこれ[固有名詞]を我々の心の内で対象の観念と結びつけ、この目印が我々の眼に触れるとき又は我々の思考の内に起こるとき我々はその個別の対象を考える起因とする。
と述べています。
しかし、例えば以下で使われる固有名詞はどうでしょう?
オデュッセウスはぐっすり眠ったまま、イタカの砂浜におろされた。
ホメロスの『オデュッセイア』の中の文章です。オデュッセウスは本当に存在したのかどうか分かりませんね。
固有名詞が何か「実体」を指すものだとすると、「オデュッセウス」という「実体」が必要ですが、我々はそれを確認するすべがありません。しかし、「オデュッセウス」が使われている文章は違和感なく使うことができます。
これはなぜでしょう?
もう1つの、「記述集合」という考え方を紹介します。
例えば、「アリストテレス」という固有名詞を考えます。
アリストテレスは、「プラトンの弟子」でもありましたし、「アレクサンドロスの家庭教師」でもありましたし、「『形而上学』を書いた哲学者」でもありました。
こういった記述の集合をまとめて指す際の、略記号が固有名詞だと考えます。
ラッセルやサールなどは、このような考え方をしたようです。
しかし、私が「アリストテレスはどうやらすごいらしい」と言うとき、「何となく哲学の一番偉い人、でも慣性の法則とかについては間違っていた人」という記述集合は持っていても、「アレクサンドロスの家庭教師」という記述は持っていません。
例えば、アリストテレスに関する記述集合は非常にたくさんあると思いますが、Aさんが想定する集合とBさんが想定する集合に全く重なりがなかったとき、AさんとBさんが会話の中で言及するアリストテレスは共通の対象なのでしょうか?
もし共通の対象なのだとすると、「アリストテレス」が指し示す「本質的な」記述があるはずです。
しかし、そんな記述は探しても探しても見つかりません。
そういった記述を求めるのはタマネギの皮をむくようなものなのである。
と本書では批判的に説明されています。
2. ヴィトゲンシュタインの考える固有名詞
では、ヴィトゲンシュタインは固有名詞をどのように考えたのでしょうか?
※ 最初に断っておきますが、本書中では「ヴィトゲンシュタインが考える固有名詞とはコレ!」という分かりやすい定義や説明はありません。また、ヴィトゲンシュタインの原典にあたった訳ではありません。そのため、本書から私が読み取った内容の要約でしかないことをご承知おきください。
まず、名前は指示機能であれ、記述機能であれ、対象との関係に支えられているのではなく、名前をたがいに受け渡し、受け継いでいく「言語共同体」によってこそ支えられている、というように、「言葉を使う人」へ注目対象を移します。(本書中では、クリプキの功績とされています。)
そして、固有名詞は、その言語を使っている人々の間で行われる言語ゲーム(会話)において、その固有名詞の使い方を言語ゲームのルールから逸脱しないで用いられる言葉、のように説明されます。
次の例をみてみましょう。
棟梁Aが石材で建物を建てる。石材は、ブロック、ピラー、プレート、ビームだ。見習いBが石材を手渡すことになっている。それも、Aが必要とする順番で手渡さなければならない。この目的のために、ふたりは、「ブロック」、「ピラー」、「プレート」、「ビーム」という単語でできた言語を使う。Aがある単語を叫べば、—それを聞いたBは、その単語に対応する石材をもってくるように学習している。—これを、完全なプリミティブ言語だと考えてもらいたい。
この二人の言語を知らない人が傍から見れば、二人は「言語ゲーム」をしているように見えます。
そして、名詞が意味をなしていることとは、二人の間に間違いが起こらない=ルールから逸脱していないことなのです。
固有名詞は、名詞の内のうち特定のもの1つを表す言葉、ということになるでしょう。しかし、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームの中では、それが表すのは「特定の実体」でも「記述集合」でもなく、「言語ゲームの参加者のルールに即した表象」なのだと思います。
3. 結婚で名前が変わるとはどういうことか?
ルールが作られる際については、固有名詞と指示代名詞の類似性に言及されています。つまり、固有名詞と「コレ」は非常に近いものとして、以下のように説明されています。
たとえば指さして定義するとき、私たちは実際、名前で呼んだモノをさして、その名前を発音しているだろう。おなじように、たとえば指さして定義するとき、あるモノをさしながら、「これ」という単語を発音している。そして「これ」と名前とは、しばしば文ではおなじ場所に置かれる。
言語ゲームのルールを共有するためのキーワードに、生活様式というものがあります。
同じ生活様式を共有していれば、言語ゲームのルールも共有しやすくなります。
そして新しい単語を共有するためには、指示代名詞を用いて「これ」と定義するのが一番手っ取り早いのです。
固有名詞もこのように獲得されていくと思います。
私たちが人の名前を聞いて誰かを思い浮かべることができるとき、共通となる体験や経験を何かしらでしているはずなのです。
そうでなければ固有名詞を用いて会話が出来ません。
すなわち、固有名詞の共有には一定程度の時間が必要なのです。
では、結婚で名前が変わってしまうことがなぜ嫌なのでしょう?
名前が変わることで、新しい固有名詞が言語ゲームのコーパスに加わります。その新しいルールを、共同体でまた共有しなければなりません。
「これ」を「(新しい名前)」と呼びます、という共有体験を、また1から仲間とし直さなければなりません。
新生児や新しく出会う人ならもちろんその作業が必要ですが、すでにある程度の人間関係ができている状態でそれをやり直すコストは非常に大きくなってしまっています。
今までの人間関係があった人たちと再び場を共有し、「これ(私)」を「(新しい名前)」とします、とやり直さなければなりません。
1回でルールが共有できるかどうかは分かりません。ルールが共有できるまで、何回も時間をかけなければいけないかもしれません。
確かに、「旧姓使用の拡大」が進めば、こういった手間はある程度省けるかもしれません。
しかし、「旧姓併記」はできても「旧姓使用」は広がっておらず、原理的に「旧姓使用」が不可能な領域があるのです。
しかも、原理的に「旧姓使用」が不可能な役所では、関わる人、担当者は毎回変わります。
その度に、「言語ルールの説明」をやり直さないといけないのです。
そんな手間なこと、必要ですか?
選択的夫婦別姓制度の早期導入を望みます。
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