交代地_2

二重のまち/交代地のうたを編む-はじまり

  いよいよというか、思っていたよりもずっと早く、9月がやってくる。
 1日から15日のあいだ陸前高田に滞在して、小森+瀬尾のあたらしい作品をつくることになっている。いままではほとんどふたりきりで作品制作をおこなってきたけど、今度はもうすこし大所帯になる。それだけでも緊張感があるなあと思っている。はっきり言って結構こわい。けど、やってみたいし、つくりたいと思う。
 現場での制作に入る前に、なぜこんなことになったかという経緯を記しておく。いつか(というかきっと近日中にも)迷うことがあった時には、これが何かしらの道しるべになってくれる気がする。

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 2015年に『二重のまち』というテキストとドローイングからなる作品をつくった。復興工事が激しく進む陸前高田、めまぐるしく更新されていく風景の傍らで書いた物語だ。描かれているのは2031年というすこしだけ未来の、あるまちに暮らす4人の暮らしの短いエピソードである。波に洗われ、更地になり、嵩上げしてできた地面の上につくられたあたらしいまちで、彼らがいかに、かつての地面に張り付いていた記憶やそこで亡くなっていった人たちと関わりながら生きているか、その姿を描いた。物語自体は架空の世界のことではあるけれど、陸前高田で関わってきた人たちや、その子や孫の身体をお借りし、一人称の形で語るようにして書いている。
 なぜそんなことをしたかといえば、激しさを増す工事によって、かつての地面や、その上に組み立てられてきた弔いの所作が喪失していくのを見ているのがどうしてもさみしくて、これからもこのまちを見つめ続けるために、何か杖のようなものが欲しかったからだと思う。そして同時に、東日本大震災から何かしらの物語が生まれたらよいのに、とも思っていた。
 この話をつくった背景にある“物語が杖になる”という発想について、すこし補足する。背景には民話との出会いがあった。私は2015年春から、宮城県を中心として民話の記録活動を行う「みやぎ民話の会」のみなさんの活動の傍にいる機会に恵まれており、そこで民話採訪者としての視点から得られる考察を伺ったり、語り手本人にお会いしたりすることがあった。民話の多くは不思議な話である。お地蔵さんが訪ねてきたとか、サルの嫁にいったとか、キツネに馬鹿にされたとか、私たちが暮らす日常には関係するとは思えないかもしれない形をしている。しかし、民話の語り手の多くは、それを“あったること”(本当にあったこと)として語った。代々手渡されるように、頬をすり合わせるようにして語り継がれる話が、根も葉もない嘘のお話ではなく、“あったること”として語られるとき、それは、私とどこかで繋がっている誰かの体験から生まれたものである、ということになる。ある個人の体験が、その価値を見出したり、自らの体験に寄せて共感したりする人たちの間で手渡されるうちに、細部が剥がされ、ユーモアをまといながら、語りたい、聞きたいと乞われ続ける形を得ていく。無数の人たちの協働によって物語は生成され、あるひとりの体験は、時と空間を軽やかに越えて、いまに伝えられるのだ。軽やかになった話はさらに、語り手が語る際に、個人的な体験やその土地ならではのエピソードを付与されたりしながら、その都度使われていく。例えば『笠地蔵』のお話でも、ある語り手が話す時は、「そこにある地蔵さんの下にね」というようにして、かつての飢饉で亡くなっていった人たちのことが盛り込まれたりするという。
 ながなが書いてしまったけれど、私としては、聞く、語るという往復の中でユーモアをまとった話が、その時々の聞き手や語り手の想像力と交わり、使われていくことで、彼らの暮らしを支えているのではないかと思っている。話を聞き、語る対面の時間も大切なものだけれど、同時に、納得できなかったり不条理であったりする日常の世界をすこしめくってみれば、自分なりにではあるが、でこぼこな筋道を見つけられる豊かな余地を含んだ不思議な世界があると思うと、ずいぶんほっとするではないか。そうやって、私たちは物語の世界で遊んできたのだ。しかしさらに民話の凄いところは、やはりそれが、“あったること”として語られることである。自分の以前に連なる無数の語り手への配慮と敬意を持つから、話は過剰な跳躍をしないのだろう。聞き手と語り手が手を携えながら渡していける、“弱い形”を維持し続けることが、語りをつなぐことのひとつの肝ではないかと私は思う。物語の怖さについては、むしろ多く語られるからここでは詳しく書かない。
 さて、話を戻す。自分にとって必要な杖がほしいという思いと、一方で欲深い私なりの、“民話のタネ”みたいなものがこの地でつくれないかなあという妄想から、『二重のまち』を書いた。誰かの体験から民話が生まれたのだとしたら、東日本大震災がもたらしたさまざまな体験からもあたらしい話が生まれたほうがいい。そう率直に思って、下手でもなんでもひとつ書いてみようと思ったのだ。そして、できた話を眺めながら、これはどのような形で使われていけるのだろうと考えてみると、声に出して読まれてこそ、話がより生きてくるのではという気がしてくる。拙く弱い話だからこそ、誰かの身体のなかを通してもらうことで、もうすこしずつ強かに立ち上がっていくこともあるのかもしれない。だいぶ贅沢だけれど、そんな場もつくってみたいと思った。それで、自分らの展覧会でほそぼそと朗読の活動を始めて、参加者とともに、この話を声で現していく場をいくつもつくるようになった。

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 そんな中で、2016年に入ってダンサーの砂連尾理さんの舞台公演作品のチームに入らないかと誘っていただいた。『猿とモルターレ』という名のその作品は、砂連尾さんが被災を経験した人たちから話を聞いた体験を元に創作され、巡回先の各地で再制作をされ続けている。私たちが参加したのは大阪、茨木市での公演だった。その舞台に、地元の高校である追手門高校の演劇部が参加していて、数ヶ月の間、彼らと砂連尾さんがワークショップを重ねる傍にいさせてもらった。そのなかで、私自身が陸前高田で見聞きした話をする機会をいただいて、そのうちに、砂連尾さんの不思議な手によって、『二重のまち』がこの公演に組み込まれていくことになる。演劇部のみんなは、夏のパートを身体表現にしていくことになった。私たちは知らなかったのだが、彼らは福島県いわき市出身のいしい先生と何度もなんども話し合いながら、陸前高田や震災のことを調べ、テキストのひとつひとつの言葉のイメージを共有しようと試みていたのだという。体験していないことを、当事者ではない(と強く思っている)自分がどうやって発話するのか、表現をするのか。その葛藤に正面でぶつかりながらも、「でも触れたい」というまっすぐな意思を持って舞台の上に立ち、手を伸ばすその様からは、伝わってくるものが本当にたくさんあった。それは観客にとっても同様であったと思う。彼らがテキストから想起したものは、陸前高田の当時の風景とは違うだろう。でも、彼らの身体は、声は、言葉は、それよりももっと遠くに飛べる物語をそれぞれに表象していた。物語が決してでたらめではないのは、手を伸ばそうとする方角が、その強さが、できる限りにおいて精確であろうとするからだろう。そこで私はなるほどと思った。あの出来事が遠いと強く思っている人たちと、一緒に何かをつくろうと。

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 とは言いつつも、小森と私は翌年に、陸前高田の人たちと一緒に『二重のまち』をつかって作品をつくっている。『にじむ風景/声の辿り』という名のその作品は、陸前高田の人たちに、『二重のまち』から自分なりの記憶を想起したうえで、自分が読みたいと思う場所で朗読してもらうというものだった。私たちには、2014年の『波のした、土のうえ』など、体験の当事者の方たちと一緒に作品をつくってきたという経緯があった。それから3年が経って、いま彼らと一緒に、(この土地)の未来の物語を読んでいくとどうなるのかということが気になっていたのだ。大切な場所で、淡々と物語を読み上げる彼らの声はすばらしかった。私が実際にモデルにしたものとは異なるけれど、彼らはそれぞれに具体的な人や風景を想起しながら、朗読をした。
 一方で、制作に向かうなかで皮膚感覚的に感じたのは、彼らの生活が震災直後とは大きく変化しているということだった。ちょうどその年、かさ上げ工事が終わった地区には中心商店街がつくられ、仮設住宅から戸建ての一軒家や公営住宅に引っ越す人も多かった。いわゆる日常のルーティンが確立されつつあり、震災直後に流れていた弔いや再建の傍で日常を営むような逆転した時間が、(震災前と形は違うかもしれないけれど)正転に戻りつつあると感じられた。それはすごいことだった。震災直後の混乱のさなかにあっても、着実に時間は進む。身体に体験を抱えたあとにも淡々とした日常は必要で、伝えたいこと、残したいこと、忘れなければならないこととの折り合いをつけながら、彼らはそれを素手で組み立ててきた。いま、仮設ではない日常が再開し、動きつつある。私はなんだか圧倒されるような思いがあった。すごいなあと思った。
 なんであれ、動き始めはとても忙しなくて、伝えたいことがあったとしても、それに従事することはできない。でも一方で復興工事は進み、かつての風景はさらに更新されていく。出来事から遠い人にとっては、この風景から何かを想起するのにぎりぎりのタイミングが訪れつつあると思われた。いまかもしれない、と思った。体験者自身が語るのではなく、だれか別の人に語りを渡していく準備期間がすでにはじまっているのではないか。気が早いかもしれないけれど、継承の始まりのひとつが、いまここに起きてもよい。体験者の語りを、遠くからやってきた旅人に渡す場をつくろう。交代地をつくり、彼らの出会いによって生まれる、あわいの歌をともにつくるのだ。
 さて、このような経緯があって、私たちは、明日からの滞在制作に入る。この機会をともにしてくれる4人の“旅人”と伴走者たちのことは、またあとで記す。

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