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嫌われ者のマーラー

皆さん、7月7日は何の日か、ご存じですか?
「ああ、たなばt…」そう!作曲家、グスタフ・マーラーの誕生日です。

皆さんは、マーラーにどのような印象をお持ちでしょうか?長そう、難しそう、暑苦しそう、そもそも名前すら聞いたことがない…。恐らく、そんなところでしょう。「嫌いな作曲家ランキング」みたいな企画では、ブルックナーとワースト1を争う常連です。
まず、マーラーは、オーケストラのコンサートでは非常に人気で、取り上げられる率も非常に高いのですが、なぜか音楽の教科書等には載らず、義務教育の中で名前を聴くことすらありません。明らかに不当な扱いを受けています。また、ライトなクラシックファンからも、「長いし難しそう」と敬遠され、食わず嫌いになられがち。さらに、マーラーをきちんと全曲聴いた人でも、好き嫌いがはっきりと分かれる作曲家です。人によっては「吐き気がする」とまで言って嫌う人もいます。確かに、非常にクセが強い作曲家であり、さらに長いときてますので、嫌いな人には苦痛でしかないでしょう。しかし、クセが強い、ということは、ハマると抜けられなくなるほどの沼になりうるということです。納豆やパクチーなんかの珍味と同じ部類なのかもしれませんね。
ということで、今回は、マーラーの交響曲を紹介し、なぜ嫌われるのか、そしてどうすれば好きになるのかを、皆さんに語っていきたいと思います。

Gustav Mahler(1860-1911)

交響曲とは思えないチープさ ― 交響曲第1番「巨人」

マーラーの音楽は、後期になればなるほど、難しく人を寄せ付けないものとなっていきます。《交響曲第10番》まで行くと、それはもはや魑魅魍魎の跳梁跋扈する百鬼夜行の阿鼻叫喚の世界…。その源流が、この《交響曲第1番》にあります。
「巨人」という副題は、初演時に付いていたものの、あとでマーラー自身によって削除されているため正式な題名ではないのですが、ここでは敢えて、少しでも親しみやすくするために表記します。もともとは5楽章構成の「交響詩」として作曲されており、現在の第1楽章と第2楽章の間に「花の章」という緩徐楽章がありました。
さて、私がこの作品を初めて聴いた時、「何これ!?交響曲っぽくない!」と思いました。ベートーヴェンやブラームスなどの交響曲のような厳粛な感じがせず、ディズニーなどの遊園地で流れる音楽のような、もしくはゲーム音楽(『スーパードンキーコング3』のステージ1の音楽)のような、そんな少しチープな感じがしました。第3楽章「カロ風の葬送行進曲」なんかは、日本でもよく知られた民謡《フレール・ジャック》を短調でカノンにしたパロディのようなもので、とても自分がこれまで思い描いていた“交響曲”のイメージからはかけ離れていました。かと思えば、急に最終楽章で、いかにも“交響曲”っぽい壮大なテーマが飛び出し、その統一感の無さにあっけにとられたものです。実際に初演では、当時の人たちも同じような印象を抱いたらしく、特に葬送行進曲は嘲笑の的になったと伝えられています。この作品こそ、マーラーの本質がわかりやすく込められています。それは、“異物感”です。いろいろなものが雑多に詰め込まれていて、しかもそれぞれが未消化のまま顔を出す。中には鳥の声や軍楽隊の音楽など、より具体的な音素材もあって、サウンドスケープ(音の風景)として顔を出します。この作品の冒頭は、霧の中、カッコウの鳴き声や、遠くで聞こえる起床ラッパのようなものがそのまま、音楽に組み込まれています。この作品はマーラーの中では最もシンプルで旋律的であり、聴いた多くの人がスッと受け入れることができるでしょう。これから繰り広げられるマーラーの樹海の、まだ日の当たる入口です

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第3楽章「カロ風の葬送行進曲」の元となったシュヴィントの版画(カロではない…)

大スペクタクル ― 交響曲第2番「復活」

さて、メルヘンチックな「巨人」とは打って変わって、第2番「復活」は、壮大でヒロイックな様相の作品です。特筆すべきはその規模。演奏には90分を要し、楽器編成も、大編成のオーケストラに加え、ステージ裏にトランペットやホルン、ティンパニーなどの打楽器、そしてソプラノ・アルト独唱と混声合唱、オルガンが入ります。ステージ裏やホールの至る所から音が聞こえ、大スペクタクルな音空間が形成されます。マーラーの音楽の持つ特徴のうち、“壮大さ”に惹かれる人は、最も魅力的な作品と思えるでしょう。一方で、マーラーのもっと内面的な特徴であるところの “皮肉”や、前述した“異物感”は、他の作品に比べると影を潜めています。とはいっても、全くないというわけではなく、例えば第3楽章のスケルツォでは、シューマンの歌曲集《詩人の恋》の1曲「あれはフルートとヴァイオリン」などの引用を指摘している研究者もいます。この第3楽章は後に、現代作曲家L.ベリオの《シンフォニア》に引用されることとなり、引用の連鎖が生まれることとなります。ともあれこの「復活」は、マーラーのもつ“異物感”、もしくは“俗っぽさ”を受け付けない人でも、それなりに楽しんで聴ける作品だと思います。第4楽章「原光」は自身の歌曲集《子どもの不思議な角笛》からの抜粋で、また第5楽章ではクロプシュトックの讃歌『復活』を歌詞としています。

ディズニー・野球応援・クリスマス… ― 交響曲第3番

《交響曲第3番》は、長大と言われるマーラーの作品の中でも最も長い作品。ブライアンという作曲家の《交響曲第1番「ゴシック」》が現れるまでは、“長い交響曲”としてギネスブックに登録されていたほどです。まあもっとも、「ゴシック」が演奏されることはほぼ無いので、実質最も長い交響曲としても良いでしょう。編成はやはり大きく、大オーケストラにアルト独唱、女声合唱と児童合唱が加わります。楽器として特徴的なのは、第3楽章で現れるポストホルンでしょうか。ポストホルンは、その名の通り郵便屋さんが吹いていたとされる小型のホルンで、客席の後ろから演奏するように指定されています。
この作品の音楽上の特徴を述べると、とてもごちゃごちゃしていています。30分を超える第1楽章は、それこそ“異物感”の塊。ブラームスの《交響曲第1番》の第4楽章のパロディともとれるファンファーレで幕を開け、その後、重々しい雰囲気が続いたかと思えば、ディズニー映画『美女と野獣』の名曲《Be Our Guest》のアレンジかと思ってしまうようなマーチが現れたり、突然、野球応援のようなドンチャン騒ぎが始まったりと大忙しです。第2楽章は妖精が踊るようなメヌエット、第3楽章はマーラーの歌曲《夏の歌い手交代》を主題とし、小鳥のさえずりをモチーフにした音楽が展開されます。前述したポストホルンの下りもこの楽章で、少々中だるみします。第4楽章は終始暗く静かで幻想的な音楽。ここではニーチェの《ツァラトゥストラはかく語りき》がアルト独唱によって歌われます。第5楽章は、いきなりクリスマスのような雰囲気です。ここでは女声合唱と、少年合唱が加わります。
さて、この《交響曲第3番》の最大の聴きどころは、なんといっても最後の第6楽章でしょう。非常に幅の広い、ゆっくりとした音楽で、非常に美しいです。静かに始まりますが、徐々に盛り上がり、最終的には感動的で壮大なフィナーレへと突き進みます。最初の構想では「愛が私に語ること」という副題が付され、神を表す楽章でした。第1楽章の俗っぽさからは想像もつかないようなフィナーレですが、その最後の最後は結構ズッコケます。終わりそうで、なかなか終わらないのです。しかも、ずっと同じ主和音のコードで、しつこくしつこく粘ります。人によっては「大げさだなあ、わざとらしいなあ」と感じるでしょう。何せ、100分を超える大交響曲の最後ですから、これくらいやっていいと私は思いますが。

大交響曲の感動的なフィナーレ

なんちゃってモーツァルト!? - 交響曲第4番

壮大で誇大妄想的なマーラー。ここまで、マーラーの交響曲は演奏時間も楽器編成も拡大の一途を辿ってきました。第4番でどんな壮大な音楽が聴けるのかと思いきや…。
クリスマスの鈴に導かれて演奏されるのは、ハイドンやモーツァルトかと聴き間違えるような軽快な旋律。楽器編成も、トロンボーンも使わず、古典的な装いです。しかし、聴き進めると、だんだんとマーラーらしいブラックさが出てきます。つまりこの作品は、疑似古典派作品であり、後の時代の“新古典派”を先取りする、パイオニア的な作品なのです。第2楽章は、一見明るかった第1楽章とは打って変わって、調性の定まらない不気味なスケルツォ。長二度高く調弦した変調ヴァイオリン・ソロが旋律を演奏しますが、マーラーはこの作品について「死神が演奏する」と書いており、死神の弾くフィドルを模したものとも言われます。

A.ベックリン『ヴァイオリンを弾く死神のいる自画像』

この交響曲のクライマックスは第3楽章。ゆったりとした一定のリズムが重要なモチーフとなっています。終楽章にはソプラノ独唱が入りますが、これまでの曲のように壮大なラスト…、というわけではなく、オーケストラ伴奏付きのささやかな歌曲といった感じです。その歌詞は、天上の生活を歌ったもので、一見底抜けに明るいようでいてどこかで闇を感じるような、不思議な歌です。このブラックユーモアにあふれた作品の最後にふさわしい歌です。

ここまで紹介した交響曲は、“角笛交響曲”と呼ばれることがあり、マーラーの歌曲集《少年の魔法の角笛》をはじめとする歌曲群と密接に結びついています。声楽が取り入れられていたり、オーケストラだけの部分も、歌曲から旋律がとられていたりします。
そして、次の第5番からしばらくは、純粋な器楽作品となります。

結婚行進曲と見せかけて… ― 交響曲第5番

メンデルスゾーンの結婚行進曲とほぼ同じファンファーレ風の出だしで始まりますが、それに続くのは重々しく陰鬱な葬送行進曲。その陰鬱さだけでも嫌になる人はいるかと思いますが、それよりも何よりも、旋律の妙な演歌感・軍歌感に少しダサさを感じる人もいるでしょう。さらに、突然テンポが変わったり、急にダイナミクスが変化したり、情緒不安定さも気になります。マーラー嫌いの人がマーラーを嫌う理由の一つとして、そうした情緒不安定さが挙げられるでしょう。曲が盛り上がってきて、一般的な感覚からすればそのあとクライマックスが来るだろう、と思われるところで一気に弱奏に沈んだり、その逆があったりと、悪い意味で予想を裏切られることが多いです。続く第2楽章も、嵐のように荒々しく始まったと思えば、以外とすぐに落ち着いて演歌風の旋律を朗々と歌います。中間に置かれた第3楽章は雰囲気が一転、メルヘンチックなワルツ風のスケルツォですが、それもどこか闇を感じ、特に最後の方は、無理やり「踊れ、踊れ!!」と強要されているような異様な雰囲気を感じます。

さて、この作品で最も有名なのは(というかマーラーの全作品で最も有名なのは)、第4楽章の「アダージェット」でしょう。この作品はヴィスコンティの映画『ベニスに死す』のテーマ曲として使われています。弦楽器とハープのみで演奏され、どこまでも甘く、それでいて儚い感じもする緩徐楽章です。続く最後の第5楽章は、底抜けに明るいフーガの楽章です。

マーラー屈指の名曲、《交響曲第5番》第4楽章“アダージェット”

ハンマーと軍歌 ― 交響曲第6番「悲劇的」

終始戦闘的な行進曲に支配された作品です。全体を通して、さながら軍歌のよう。この作品の全体を統一するテーマとして、「明から暗へ」というキーワードがあります。長三和音から第3音が半音下がり短三和音に変わるモチーフが全曲に渡って現れ、そしてこの曲の最後も、短調で暗く終わります。ベートーヴェンに代表される「暗から明へ」というドラマチックな展開の真逆を、敢えて行っているわけです。
この作品でもう一つ特徴的なのが、使用楽器の多彩さです。チェレスタやシロフォンなどは当時のオーケストラとしては珍しいものでしたし、さらにムチ(ルーテ)、カウベル、鐘、巨大なハンマーなどは、楽器というよりも、日用品を音楽の中に取り入れたといった感じです。ここでいうカウベルというのは、ラテン音楽に使う叩いて音を出すものではなく、本当に牛に付けられている、カラカラと音のなる鈴のようなもので、これをサウンドスケープとして舞台裏から複数鳴らします。第1楽章の途中に現れるカウベルとチェレスタの部分は、非常に神秘的な感じがします。ハンマーは、この作品の象徴的な存在ですが、曲のクライマックスで2度(版によっては3~5度)振り下ろされます。大きな音が鳴りますが、音よりも見た目のインパクトがすごいです。ちなみに私が初めて生で聴いた演奏では、あまりにも大きい音で、両隣前後で寝ていたお客さんがびっくりして飛び起きるという現象が確認されました。
軍隊的な行進曲とロマンチックな“アルマ(マーラーの奥さん)のテーマ”が交錯する第1楽章。機械的で、やはり戦闘的な変拍子の第2楽章。穏やかで、平和を夢想するような(演歌風の旋律の)第3楽章。そして再び戦闘的で、この楽章だけで一つの大交響詩のような30分を超える第4楽章。マーラーの全作品の中でも、最も全曲の統一感が取れ、完成度の高い作品です。

この曲を象徴付ける楽器“ハンマー”の一撃

夜の異常なテンション ― 交響曲第7番「夜の歌」

中期器楽三部作の最後を飾るのは、マーラー最大の問題作と言われる《交響曲第7番「夜の歌」》です。
夜の中の湖上で、ボートのオールを漕ぐように始まる第1楽章。ここでもまた珍しいテノールホルンという楽器が使われており、それがオーケストラの中で“異物”のように響きます。やがて行進曲のようになっていきますが、和声が複雑すぎてほぼ不協和音のように聴こえるところが多々。第2楽章は「夜曲」と名付けられており、ゆっくりとした軍隊行進曲です。第6番から引き続いて、カウベルによる異世界感も演出されます。続く第3楽章は「影のように」と指示されたスケルツォ。この楽曲も面白く、木管のグリッサンドやバルトーク・ピチカートといった特殊奏法を用いつつ、“影”を巧みに演出しています。第4楽章は、第2楽章と同じく「夜曲」と名付けられていますが、雰囲気は異なり、中世のセレナーデを模している楽曲です。ギターとマンドリンがオーケストラに組み込まれており、それもまた異質に響きます
さて、冒頭でこの作品が“問題作”と言われていると書きましたが、その原因の9割がフィナーレの第5楽章です。これまで存分に夜の雰囲気を醸し出してきたこの交響曲は、ここにきて急に病的なほどハイテンションのドンチャン騒ぎが始まります。しかも、いろいろな曲を無理やり繋ぎ合わせたような、安定しない様子も病的。まあ夜って、急にこんなハイテンションになることもありますよね…(ないか)。哲学者アドルノは、この楽章を“空虚な歓喜”と形容していますが、まさにこれこそが、この楽章、ひいてはこの交響曲全体の正体なのでしょう。つまりこれは、「暗から明へ」「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」というベートーヴェン以降のロマンチックな交響曲そのものを極端にデフォルメして、パロディにしていると考えられるのです。思えばマーラーは、《交響曲第1番》から、メタ的な視点で、交響曲を一つのパロディとして見ていたように思えます。交響曲という格式高い形式を取っていながら、童謡をそのまま引用したり、明らかにモーツァルトやハイドンを模した旋律を書いたり、わざとらしいチープな行進曲を取り込んだり、さらにはソナタ形式という形式をも茶化して皮肉のように扱ったり…。つまり、この作品を理解できるかできないかは、マーラーの本質を理解できるかできないか、といった根本の問題に直結するのです。マーラー自身がそれをどこまで狙ったのか、まじめにやってこうなったのか…。それはマーラーのみぞ知るといったところですが、ヘンリー・リー著の『異邦人マーラー』を読めば、彼のことが少し理解できる気がしますのでおすすめしておきます。

誇大妄想の頂点 ― 交響曲第8番「千人の交響曲」

次の交響曲は、マーラーの中でも大掛かりで記念碑的な作品、「千人の交響曲」の呼び名で知られる《交響曲第8番》です。《第2番》や《第3番》のころに立ち返り声楽を含んだ作品となっており、交響曲というよりもカンタータと呼ぶべきものでしょう。やはり特筆すべきはその編成の大きさ。舞台外の管楽器群も含めた大オーケストラに、パイプオルガンやピアノをはじめとした鍵盤楽器、マンドリン、そして8人の独唱と2グループの混声合唱、そして児童合唱という、これでもか、とてんこ盛りにしたような大編成です。「千人の」とは決して誇張ではなく、実際に演奏者は千人を超えます。当時初めて聴いた聴衆は、宇宙の鳴動のように感じられたことでしょう。
この作品は、マーラーの作品の中でも珍しく初演が大成功した作品で、マーラーの死後も幾度も演奏会で取り上げられました。この成功からもわかる通り、この作品はある意味では“マーラーらしくない”作品です。つまり、ブラックユーモアや皮肉のようなものが無く、ただただ壮大で祝典的で大げさな作品なのです。
普通の交響曲は、3~5程度の複数の楽章に分かれていることが多いですが、この作品は、第1部「来たれ、創造主なる聖霊よ」と、第2部「ファウスト終幕の場」の2部から成ります。第1部はソナタ形式となっており、第2部への巨大な序曲のように感じられます。私はまだ、この作品をコンサートで聴いたことがありません。憧れですが、チケットが高価なうえ人気で、これまでなかなか機会にめぐまれませんでした。少し話は逸れますが、この作品や《交響曲第1番》を聴いていると、『ウルトラセブン』のテーマにどことなく似ているなあ、と思うことがあります。作曲者の冬木透先生は、マーラーがお好きだったのでしょうか?

東洋風の無常観 ― 交響曲「大地の歌」

《大地の歌》、《交響曲第9番》、《交響曲第10番》は、俗に“死の三部作”と呼ばれることがあります。確かにこの3曲は、マーラーが自分の死を意識して書いたことは疑いようがなく、その中でも《大地の歌》は、その歌詞がはっきりと“死”に関しているものですので、それが明白です。この作品はよく、マーラーが「9番目の交響曲を書くと死ぬ」というジンクスから、第9番という番号を付けるのを避けたというエピソードとともに語られますが、これはマーラーの未亡人、アルマの証言であり、彼女はよく嘘をついたので、現在では眉唾の話とされています。
マーラーの作曲家としての仕事は、ほぼすべてが交響曲と歌曲に絞られます。この《大地の歌》は、マーラーが挑んできたこの2つのジャンルのハイブリッド作品で、オーケストラ伴奏付きの歌曲集とも思えるものです。歌詞は、ハンス・ベートゲの訳した李白や孟浩然など古代中国の詩からマーラーが抜き取ったもので、音楽も東洋風のものとなっています。特に第3楽章「青春について」と第4楽章「美について」では明確に東洋風の五音音階を用いており、東洋人であるわれわれには耳に馴染んだ感じがあります。
さて、この作品は6つの楽章から成っていますが、その演奏時間の約半分が第6楽章「告別」です(かなりアンバランス…)。この第6楽章は特に、東洋的な無常観とか、厭世観といったものを音楽で巧みに表しています。音楽の流れが西洋音楽の拍感をもって進んでいくのではなく、雅楽に近いような、静かな山の中で仙人が水墨画を描いているような、そんな音楽です。武満徹は「洋楽の音は水平に歩行する。だが尺八の音は垂直に樹のように起る。」と語りましたが、この音楽を聴いていると、まさにマーラーが東洋の精神を神髄から理解していたと感じます。BGMとして聴いているだけだと、ただただ暗い音楽に聞こえてしまうかもしれませんが、ゆったりと耳をすませば、中国の桂林のような風景が見えて来ます。マーラーの思い描いた死後の世界は、こういう世界だったのでしょう。

この世との告別 ― 交響曲第9番

マーラーの完成された最後の交響曲である《交響曲第9番》は、マーラーの音楽の究極です。これまでのように、ハンマーを使ったり大合唱を取り入れたりといった外面的な真新しさはありません。しかし、音楽の内容は非常に先進的で、マーラーの強烈な個性が凝縮したようなものとなっています。第1楽章「アンダンテ・コモド」は、《大地の歌》の最後から続くような音楽で、ため息のモチーフや、不整脈のモチーフ、弔鐘のモチーフ(モチーフ名はすべて愛称)など、いくつかのモチーフが折り重なって、やがて一つの旋律を紡ぎ出します。静かに始まり、その後有機的に音楽は発展し、狂おしいほどに激しくなったり静まったりを繰り返します。複雑な第1楽章が静かに終わると、「今までのは何だったんだ?」と思うくらい、単純で人を食ったような第2楽章が始まります。しかしこちらも、シンプルながら情緒不安定な様子で、グロテスクな様相を呈してきます。第1楽章は葬送行進曲のようになっていましたが、この第2楽章は“死の舞踏”のような様相です。第3楽章は、“ロンド・ブルレスケ”と名付けられていて、ビートのはっきりした音楽ですが、執拗に対位法的な処置が施され、旋律もどこへ向かっているのかわからないような不安なものです。まさにブルレスケ(皮肉・道化といった意味)という言葉にふさわしい曲です。第4楽章を先取りしたような落ち着いた部分を挟んで、最後はすさまじい狂乱となって突然終わります。この楽章そのものが、交響曲全体の中で“異物”として働きます。そして終楽章、アダージョは、前楽章に打って変わって穏やかで非常に美しく、ホモフォニックかつ和声的に複雑な音楽。調的にも旋律的にも、どこへ向かっているのかはわからない一方、それがなぜか癖になり、どこまでも沼へハマっていくような魅力があります。最後はなかなか終わらないのですが、それはこの世への未練のようなものを表しているという人もいます。マーラーが自分へ捧げた、レクイエムのような音楽です。
この《交響曲第9番》は、楽曲の構成的にチャイコフスキーの《交響曲第6番「悲愴」》との類似がよく指摘されます。特に、消え入るように全曲を閉じるところは共通しています。ただ、両者の印象は全く違い、チャイコフスキーが悲しみの中に沈んでいくのに対して、マーラーの方は、満たされたような、肯定的な消え入り方です。大地の歌の「第九のジンクス」のエピソードが本当だとして、マーラーはこの《交響曲第9番》を作った時点で、自分に来たる死の運命を受け入れていたのかもしれませんね。
《大地の歌》と《交響曲第9番》の初演は、マーラーの生前には間に合わず、自身の耳で聴くことはかないませんでした。

第3楽章の怒涛の終わり~第4楽章

異界の音楽 ― 交響曲第10番

マーラーの未完の最後の交響曲で、様々な作曲家や研究家によって補筆完成されています。第1、第2楽章まではオーケストラの草稿が残っていますが、第3、4、5と楽章を追うごとに不確定要素が多くなっています。ただ、全体的なスケッチで、曲の全体像というのは大体つかめ、マーラーがどうオーケストレーションしたかったのか、という意図が読み取れる箇所も多々残っていました。有名なところで、デリック・クック補筆版があり、現在主に演奏されているものはこれでしょう。
私としては、この《交響曲第10番》こそ、最も“マーラーっぽい”と感じています。他の人の手が入っているにも関わらずです。まず、マーラーがほぼ完成させていた第1楽章は、世紀末芸術の最高峰でしょう。調性のあいまいな単旋律のヴィオラの序奏があり、次いでアダージョの主題が現れます。その主題は、長調の甘く熱い愛の主題なのですが、どこか悲痛で、マーラーの心の苦悩の叫びを聞いているようです。曲のクライマックスでは、トーン・クラスターともいえる、強烈な不協和音が鳴り響き、聴く人の心を締め付けます。苦痛と幸福が複雑に絡み合ったような、歪んだ愛情を感じさせる病的な楽曲です。第2楽章は、リズムが非常に複雑で、1,2小節単位で拍子が頻繁に変わる変拍子の楽曲です。何か、壊れたブリキのぜんまい式おもちゃの踊りのようで不気味です。第3楽章は「プルガトリオ(煉獄)」と名付けられています。プルガトリオとは、天国と地獄の中間にある部分で、天国に行くための浄化の責め苦を味わう場所です。非常に旋律的で、器楽のみで歌われる“歌曲”といえます。以後の楽章は、この「プルガトリオ」の旋律の影響を受けています。第4楽章に、この作品2つめのスケルツォが置かれますが、こちらは第2楽章と違って拍子は3拍子で安定しています。不気味なワルツで、不協和音が至る所で響き渡ります。そして、フィナーレの第5楽章は、静寂の中に、乾いたバスドラムの強打が、一定間隔で鳴らされるという、世紀末的な風景で幕を開けます。閑散とした霧の荒野にひとり佇んでいるような気持になります。私は昔、長野の美ヶ原美術館に行ったとき、その裏に石がたくさん積んである賽の河原のような場所があったのですが、そこで頭の中に同じような音楽が浮かびました。霧が徐々に明けるようにその部分が終わると、フルートによる天国的な美しい主題が始まります。全体を通して、何か現世では味わえないような、神秘的な音楽体験ができます

マーラーの交響曲は、自己顕示欲最強ブログ

さて、この《交響曲第10番》のスケッチには、マーラーの私的な、アルマ(奥さん)や人生への恨みつらみがそこかしこに綴られていました。例えば先ほど説明した、静寂の中で大太鼓が一定間隔で強打される箇所には「これが何を意味するか、知っているのは君だけだ」というアルマへの未練ありげな書き込みがありました(面倒くさい男)。マーラーの死後、アルマは《交響曲第10番》スケッチの一部を破って捨てており、そこにはアルマにとって不都合なことが書かれていたと推測されます。当時アルマは、建築家のグロピウスと不倫しており、マーラーはそのことを知っていて、嫉妬に狂っていたのかもしれません。
このことからもわかるように、マーラーの作品群を今見返したとき、それは、マーラーの極めて個人的なことを書き綴ったブログのように思えてきます。中二病をこじらせ、めちゃくちゃ病んだことばかりを描き、誇大妄想気味の、自己愛に満ちた、情緒不安定なブログです。情緒不安定なので、そこには異質なものもバンバン入ってきます。政治の話をしていると思ったら急に自分の趣味の話になったり、かと思ったら急に「腹が減った」とその時々の気分を書いたり。しかもそのブログがめちゃくちゃ長い!毎日単行本2冊くらいの分量で書いてあるのです。個人的なことをものすごく大げさにつらつらと書き連ねた自己顕示欲最強ブログ、それがマーラーの交響曲の本質です。マーラーが嫌われる理由の根本は、そこにあるんじゃないかと思います。ただそのブログは妙に文才があって、魅力的にも感じるのです。私はマーラーが大好きです。しかし、マーラーが嫌いという人の意見を聴くのも大好きです!!なぜなら、マーラーが嫌いな人の意見を聞いていると、「ああ、この人はマーラーを本当によく理解しているなあ」と感心してしまうからです。さらに、自分の知らないマーラーの一面を、嫌いな人は見ていたりして、新たな発見にもなります。よく嫌いなCMを見ていて、気付いたらそのCMがクセになって好きになる、ということは良くありますが、本当に好きと嫌いは紙一重。マーラーが嫌いになることは、マーラー好きになる第一歩なのかもしれません。
どうか、マーラーを食わず嫌いしている皆さん、マーラーをきちんと聴いて、ちゃんと嫌いになりましょう!

Text by 一色萌生

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