戦時下の警察ー「関特演」などを意識して防諜は強化、仕事は簡略化、一般民への対応は丁寧に?
警察関係の戦時下の資料は、警察組織という性格もあり、なかなか入手できません。一方、わずかながらでも入手した資料で、戦時下警察の雰囲気をお伝えします。基本的には防諜の強化、少ない人数で軍需や配給等の業務に対応するための仕事の簡素化、そしてなぜか、というか当然というか、一般庶民への対応を丁寧にーと。そんな側面をどうぞ。
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まず、特高秘収第二九二五号とされた「防諜並びに流言取締りの強化に関する件」。1941(昭和16)年7月27日に長野警察署長が各署員に渡した資料です。基本は特高係に渡ったのでしょうが、一般署員も関連するので、全署員に配ったもののうち、余分に残ったものと推察されます。5ページの短い内容です。
緊迫する状勢や臨時召集とあるのは、何の事か。この日付の前後から当たりを付けますと、まずこの年の4月13日、日ソ中立条約が結ばれています。日本が南方の資源地帯を伺うために北方を安定させる狙いでしたが、6月22日にドイツ軍がソ連に攻め込み独ソ戦が始まると、7月7日、大本営は関東軍特別演習(関特演)の第一次動員を下令します。これは50日ほどの間に85万人の兵力をソ連と満州国(現・中国東北部)の国境にひそかに集結させ、国境のソ連軍が手薄になったら一挙に攻め込むという作戦でした。中立条約締結から3か月しか経っていないのに、です。
そんなわけですから、臨時召集が次々と行われ、秘密の行動なので通常なら行う歓送会や神社参拝、見送りが禁止されたのです。下写真の文章に「見送りは軍機関の方針を厳守せしむる事」とあるのは、これをさしているとみて間違いないでしょう。
こうした状勢下、工場の防諜指導では、外から中を見えにくくするだけでなく、空襲に備える灯火管制や警備員の増強などの具体策を挙げています。一般対策としては、警防団や翼賛壮年団などの協力も得て講演などを実施すること、としています。
そして各種の取締りで、流言飛語の悪質なもの、まあ、真実を突いているもの、というところでしょうかーは「仮借なく検挙すること」と厳しく出たほか、この際、煙突や壁、屋根上などの広告を「全部抹消せしめ」、国情を察知せられる印刷物の取締りを厳重にしろとしています。
実は関特演に続いて南部仏印進駐も7月23日に大本営が発令しており、諸外国、特に米国がどう動くかが大きな問題で、それもあって緊張感が高まっていた様子がうかがえます。停車場では外国人の行動に特に調査報告をし、重要な場所に近寄られないようにするよう求めています。
南部仏印進駐で米穀が石油禁輸に踏み切ったのを機に、オランダとの輸入交渉も頓挫したことから、大日本帝国はずるずると日中戦争を続けたまま、ドイツ軍の勝利を望みに託し、太平洋戦争に突入します。(その数日前にモスクワ前面のドイツ軍は大反撃を受けて後退していたのですが)
そして緒戦の勝利から戦局が下り坂になってきた1943(昭和18)年3月9日、富草警察署(現・長野県伊那市内)は「甲警勅収第30号 戦時下警察力の運営に関する件」を約20人の署員に配布します。「時局の重大性に鑑み」、警察の運営の重点とする部分と簡素化することをあらためて明確にしたものです。
一方、現在より緩和する事項はけっこう多く、署内の召集回数の減、各種手続きの簡素化が主なものとなり、また、基礎的な各種の名簿作りも廃止してしまいます。
そして最後に「民衆処遇改善方策」を署長から率先垂範せよとしています。会議や参考人招致などは、生産などに悪影響を与えないように、家人らに不安を与えないようにと、具体的に上げます。
「夜間の願いも笑顔で当たれ」など、気を使っています。治安のためにも、情報収集のためにも、また無理な政策を承知させるにも、警察が仲立ちになれるように庶民に疎まれるようなことをするなというところでしょう。「おいコラ警察」からの脱皮は、「緊迫した状勢下」の治安対策として、重要だったといえるのではないでしょうか。
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