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長野県諏訪地方の修学旅行を昭和11年と17年で比較ー戦時下の格差が如実に

 表題写真は、いずれも修学旅行でまとめた冊子です。右は1936(昭和11)年5月の長野県諏訪郡の永明小学校(現・茅野市)の「関西の旅」、左は1942(昭和16)年9月のやはり長野県諏訪郡の下諏訪町東国民学校(現・下諏訪町)の「参宮の旅」です。いずれも高等科2年(現在の中学2年)の修学旅行の記録です。
 同じ学校とはいきませんが、諏訪地方の学校同士ですので、地理的な条件が変わらないことから比較してみました。
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 1936年の、2・26事件などはありましたが、日中戦争は始まっていない年の「関西の旅」は、100ページもあるひも綴じの立派な冊子です。修学旅行のガイド本で、ガリ版刷りと写真印刷ページからできており、ところどころ駅のスタンプなどを張れるように空けてあったのでしょう。きちんと張り付けて列車の旅を飽きさせないようにしています。

大津駅のスタンプ

 何年生の旅行かは明記してありませんが、尋常小学校高等科2年の教科書からの引用があるので、その年代と判断しました。

全行程が分かる地図入り
日程1
日程2

 日程は5泊5日。5月28日午後10時43分に茅野駅を出発。車中泊で5月29日に名古屋市着。名古屋城を見学してから滋賀、京都方面へ。汽船にも乗って石山寺、三井寺、清水寺を回ります。翌日は京都御所、金閣寺、戦場大橋などを訪ね、京極の夜景も楽しみます。
 31日は三十三間堂などを回って奈良へ。興福寺、東大寺、若草山と観光地巡り。翌6月1日に法隆寺を見学して二見へ。最終日は伊勢神宮を参拝して午後9時、茅野駅へ戻るという、なかなか充実した旅です。

法隆寺の仏像配置なども解説

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 一方、太平洋戦争開戦後の1942(昭和17)年の「参宮の旅」は、400字詰め原稿用紙33枚に旅の思い出をまとめた、児童手作りの作品です。年代は同じく国民学校高等科2年。文字だけでなく、丁寧なイラストもたくさん入っています。閉じ紐も凝っています。

手書きの表紙
絵で列車の旅の雰囲気が伝わります

 さて、同じ諏訪地方の学校ですが、変貌ぶりは以下の通りです。まず列車が確保できないのでしょう。一斉に動くことが出来ず、男女別に1班、2班にわけ、2泊3日の同じ行程を一日遅れで動きます。第1班で見ますと、9月17日午前5時に下諏訪駅を出発。名古屋を経由して一気に伊勢へ入り伊勢神宮を参拝、二見に泊まります。翌日は奈良の橿原神宮を参拝して名古屋に戻り、熱田神宮を参拝。最終日の19日、動物園に寄って帰ります。完全な参拝旅行です。

日程はこれだけです

 それでも、二見では「大きな見たこともないようなおへやへとまった。二見まで行けば買いたい物ばかりいっぱいに売っている」と記述。家へはがきを書いてスタンプを押し、友達と一緒に出すなど楽しんでいる様子です。ただ、食事は、おひつに大根のかけらが入っていて衛生的にいやな感じがし、冷たくまずかったなどと記述しています。
 また、参拝では服のほこりを払いえりをただし、熱心に祈っている場面を描いてあります。その神社に対する知識なども含め、精神教育が行き届いている感じです。
 そして名古屋の旅館に、国家総動員法に基づく国民徴用令で動員されて名古屋の三菱の工場で働いている近所の人が訪ねてきて、荷物を預ける場面も出てきます。いかにも戦時下の風景です。先行した男子班から、女子班が翌日来ることを知ったということで、これは幸いでした。

名古屋の軍需工場に徴用された近所の人が来訪

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 それにしても、わずか6年の間に、なぜこれほどの差が出たのでしょうか。鉄道省は、皇室の御祖神である天照大神をまつる皇大神宮(伊勢神宮内宮)と内宮を支える豊受大神宮(外宮)の参拝を目的とする小学生の団体運賃割引を日中戦争の開戦に合わせて1937(昭和12)年8月から2割引きにするなど、参拝を促していました。長野県内の学校も、多くはこの特典を利用しつつ関西の旅を楽しんだようです。
 ところが1940(昭和15)年6月22日、文部省は尋常高等小学校(翌年から国民学校)、中等学校に対して、3日を超える旅行を許可しないとの文部次官通牒を出します。いつ終わるともしれない日中戦争のため、国内の経済事情は下り坂になっていて、輸送事情の逼迫や物資消費規制も理由とし、内容も見学旅行はだめで、調査研究や心身鍛錬に資するものでなければいけないとしました。
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 まだ日中戦争突入前の1936年と、1940年の規制を受けた1942年の旅行。大きな変化の背景には、日中戦争で疲弊していた日本の事情がありました。そして紀元2600年を契機に多くの人を動員して整備した橿原神宮を訪問先に組み入れるのは、戦時下にあって大切なことだったのでしょう。今なら子どもたちに、のびのび、自由に育ってほしいと思うのが当たり前。でも、戦時下では国家神道の型にかりっとはめていくのが大事だったようです。

 ただ、修学旅行に行けた世代はまだ良かったほうです。文部省の突然の方針変更で修学旅行を中止したりした学校もあり、さらに戦局が悪化する中で「戦前の修学旅行が息の根を止められたのは昭和18年」(旅行のススメ・白幡洋三郎、中公新書)と指摘されています。松本市在住の方に聞き取りをした時も、修学旅行に行っておらず「積み立てたお金も戻ってこなかったけど、どうなったのかね」と話されていました。
 見聞を広め子どもが成長する学校行事も、戦時下では戦争に役立つ範囲でしか認められず物理的にも困難になりました。二度と、そんな思いをさせたくありません。

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