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養蚕県から搾り取れ(上)ー戦争で長野県の農家は兵を出すだけではなく、繭の増産も強いられました。

 きれいな水や労働力に恵まれ、進取の精神も旺盛だった長野県は、早くも明治時代から、諏訪湖周辺や善光寺平など、あちこちで養蚕と製糸が盛んになり、外貨を稼ぐ日本の製糸産業の屋台骨となっていました。
 日露戦争が始まって間もない、1904(明治37)年4月13日、長野県は「告諭第3号」を出し、農家の奮起を促します。

日露戦争開戦で出された長野県告諭第三号

 この中で、知事は冒頭「農工商たるを問わず各其本分を守り勤倹力行夙夜(しゅくや=朝早くから夜遅くまで)其業を励み一意財源の涵養に努力せざるべからず」と、戦費を支えることを求めます。

戦争が終わるのはまだ先のことで、さまざまな障害が発生するがそれぞれ工夫して乗り切るようにと指示。

 そして、この際を利用してさまざまな事業の改良、改善に取り組めとして、食糧増産、馬匹の改良に続いて養蚕関連を取り上げ、桑畑の改良や製糸工女の争奪、繭買い取りのトラブルなどを改善項目に挙げており、製糸の重要性が示されています。

製糸関連の改善項目が多数並んだ告諭

 こうした状況は1937(昭和12)年7月に始まった日中戦争でも同様で、日本中央蚕糸会は翌年7月、日中戦争が短期間に終わらないとの陸軍・政府の見通しを受け、開戦一周年に合わせて「長期戦下に於ける養蚕家の覚悟」と題した声明を出しています。(下写真)

日中戦争開戦1周年での養蚕家への声明

 「特に、蚕糸は純国産であるから、これが輸出は国際収支上悉く受け取り勘定になる」と、増産が国庫に寄与する点を強調したほか、輸入繊維の制限に備えうる唯一の国産繊維として、「責務は一層加重されてきた」と奮起をうながします。
 一方で、この年の春繭は減産したこと、秋繭も芳しくない情勢にあるが、繭の減産は戦争遂行にも障害を来すとし、減産の阻止によって「蚕糸報国」の実を挙げよと迫っています。

蚕糸報国を訴え

 一方、神奈川県では抜け駆けして儲けようとするのではなく、共同出荷を強調し「個人主義を捨て全体主義の統制に服せ」とのチラシを同じころに配布、「支那事変は国家総力戦」と強調しています。

 また、翌年の7月には長野県などが、この年の全国での生産目標のうち11%を長野県に求められていて、実現のために前年に比べ春は14%、夏秋で37%の増産が必要と強調する資料を配布。長野県の指導対策を上げ、増産すれば奨励金が配慮されるともして、努力は必要だが無理な数字ではないとしています。

秋蚕に向けた長野県のチラシ
増産目標に対し「容易ならざる努力を要する」と注意を促す

 こうした増産目標は、国から県、県から郡、そして市町村へと割り当てられ、さらに各農家に出荷目標が示されます。下写真は1943(昭和18)年に長野県から、ある農家に割り当てられた数字で、米英撃滅のスローガンとともに、従来は少ないとした春蚕でも夏秋と同様の生産量を求めているところに、無理を重ねている様子がうかがえます。

1943年度ともなると、敵愾心も糧に。

 戦時下、綿花や羊毛の輸入は滞り、軍事優先に割り当てられていることもあって、絹地は服の代用品ともされますが、すぐにこちらも落下傘や気軍航空隊のマフラー、大砲の弾用にと、さまざまな軍事用品として期待される中、こんどは食糧増産で逆に桑畑を芋畑に変えるなど、農家は振り回されっぱなし。製糸工場も軍需工場に衣変えするなど、長期の戦争は予測を立てられない状態に陥っていきます。

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