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1931(昭和6)年に長野県内各地を巡回した戦争映画「大空軍」は航空予算獲得の世論作りにもなったか

 1931(昭和6)年2月11日の紀元節に合わせて、松竹系の劇場で映画「大空軍」が封切られました。架空の戦争で首都の上空を守る日本陸軍航空隊の活躍を描いた「日本初のトーキー航空映画」と、当時おおいに宣伝された作品のようです。内容は後述するとして、長野県内でも陸軍省後援などを受けて、各地で上映会がありました。こちらは長野県下伊那郡大島村(現・松川町)の大島劇場で行った上映会のチラシです。上映は8月6日1日限りとあり、チラシでも同年9月に始まる満州事変に一言も触れていないことから、1931年のものと判断しました。

戦争映画らしい迫力のチラシです

 「見よ!我が空軍の威力を!」のコピーと複葉機の群れ。1931年当時、日本陸軍の主力戦闘機はフランスのニューポール29C1を輸入やライセンス生産した複葉の甲式四型で、こちらもそれをイメージしたものでしょう。

「見よ!我が空軍の威力を!」と煽られれば見にいかねば!

 まあ、同時上映の欧米映画「命の的無理矢理突破 壱萬哩」も「笑の王者」出演で気になりますが。

併映も気になる

 映画「大空軍」、後援は陸軍省、陸軍航空本部などが並び、そのため出動部隊も所沢、下志津、明野と各地の陸軍飛行学校が全面的に名を連ねるほか、気球や高射砲の部隊も参加。さらに近衛騎兵連隊も登場と、各地で防空訓練を開催し始めたばかりの陸軍が、相当に力を入れていた様子がうかがえます。

陸軍諸部隊が全面的に協力した様子

 一方、こちらは全く別の方面から入手した、映画「大空軍」に加え、チャップリンやロイドの喜劇映画を上映する長野市の相生座(現役です!)の在郷軍人家族優待券です。帝国在郷軍人会長野市連合分会が後援しております。

人が多い場所ですから、9月11日から4日間の興行でした。

 この二つの資料から、1931年に「大空軍」があちこちを巡回したのが分かります。全然関係なく集めてきた資料が突然突き合わさり、その時代を面的に広げてくれました。ちなみに、満州事変は1931年9月18日勃発です。9月11日からの長野市の上映会でも特に触れていないことから、同年のものと判断しました。
 しかし、それから一週間もしないうちに本物の戦争が始まると想像できたでしょうか。確かに、大山大尉事件など、緊張感は高まっていましたが。 

柳条湖事件は上映終了から4日後です

 ところでこの映画、フィルムは現存していません。どんなストーリーだったか、この当時の防空意識はどうだったか、東京都中央区の松竹大谷図書館を訪ねたところ、1930(昭和5)年11月発行のキネマ旬報382号にあらすじが載っていることが分かりました。なお、主演の鹿島陽之助は飛行機の操縦ができたようですが、実際に操縦したかはフィルムがなく、不明です。当時の陸軍の精鋭を記録したであろう映画ですが、残念なことです。著作権切れでもあり、以下にあらすじを紹介させていただきます。
           ◇
 解説―東京シネマ商会が陸軍省の後援のもとに製作した航空映画である。

 略筋―飛行学生小村少尉は晴れの単独飛行試験の日、不慮の災厄のためけがをしたのが因となり飛行界を退かねばならなくなったが、教官山田大尉をはじめ僚友安東少尉及びその妹容子に激励され、更生の意気でエンジンの発明に没頭する。
 その後安東はイタリアへ航空視察のため派遣されたが、かねてから危機をはらんでいた某国との国交断絶されたので急ぎ帰国、祖国のため戦線に立った。ついに空に海に陸に戦は日とともに白熱化していく。突如敵機が帝都の上空を襲った。都民の混乱の中にわが飛行機は敵機を迎え撃ち、山田編隊長は名誉の戦死を遂げた。
 この報に接した飛行隊本部では安東を先頭に戦場に送った。安東の機こそは小村が血と涙との結晶によって発明したエンジンが取り付けられているのだった。山田少尉の復讐のため安東は阿修羅のごとく敵機に迫った。敵将! それは安東がイタリアに外遊中親交を結んだ某国の航空兵大尉アドルフ・クラアクその人だった。安東は友情と公敵とのジレンマに苦悩したが、涙を呑んでクラアクに当たった。激戦数刻、敵機は姿を消した。
 クラアクは安東に射落とされたが奇跡的に助かり、わが野戦病院に収容され、ここで図らずも重傷を負った安東と邂逅してお互いに祖国のために健康を祝した。
 やがて休戦となり、戦塵は全く収まった。かつては涙の日を送った小村と容子との上に、限りなき幸福は訪れたのであった。(転載終了)
           ◇
 武士道精神的展開など、まだまだ牧歌的な内容ですが、陸軍としては国民の防空意識向上に期待したのでしょう。1928(昭和3)年の大阪での初の防空演習に続いて各地で規模は異なるものの、少しづつ防空演習が開かれるようになり、長野市では「大空軍」封切翌年、満州事変下の1932年5月に行われます。さらに翌年の1933(昭和8)年には、大規模に一般人を参加させた関東防空演習が行われます。
 一方、長野県の地方紙、信濃毎日新聞主筆の桐生悠々は社説「関東防空演習を嗤う」で、この演習に対し、本土に敵を迎え撃つのはもはや敗北である、灯火管制も将来は役立たないなどと批判しました。すると、陸軍の意を受けた信州郷軍同志会が、不買運動を背景に信濃毎日新聞社に圧力をかけ、桐生は退社せざるを得なくなりました。10数年後、その警鐘は見事に当たることになります。

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