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日中戦争下、武道偏重やスポーツの娯楽性排撃に対し、異を唱えた正論

 日中戦争も終わりが見えない状態になりつつあった1940(昭和15)年1月1日の信濃毎日新聞に「戦時下のスポーツ 武道偏重は悪い」と題した東大教授の末広厳太郎法学博士の寄稿文が掲載されました。戦時下、スポーツによる報国を肯定しつつも、武道の精神性の強調やスポーツ排撃に対して理論的に疑義を唱えた文章です。主張は控えめではありますが、逆に戦時下にはそんな控えめな良識さえ蹂躙されていたことを示しているかもしれません。

 近年も学校現場への武道導入、銃剣道の国体毎年開催(その陰でボクシングが隔年開催に)など、武道推進の動きが目立ってきています。武道を特に重視するところに落とし穴はないか、現代にも通じることと考え、著作権切れでもあることから全文を転載します(読みにくい漢字を適宜ひらがななどに変え、句読点を補充しています。表題写真は1940年11月の第11回明治神宮国民体育大会画報で、掲載写真はいずれもそこからの転載です)。
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 「戦時非常の今日、スポーツの実践もまた極力戦争目的に貢献する精神の下に行われねばならぬこと素より言うまでもない。戦争目的に沿わざるものは、仮にスポーツの名をもってするも断然許すべからざるはもちろん、むしろ進んで積極的に戦争目的に協力貢献してゆくことこそ戦時下スポーツマンの心がけでなければならない。

 しかしながら、すべてのことがそうであるように、スポーツにはスポーツ独特の特色がある。他の何物をもってしても代えがたい特徴がある。従ってスポーツをもって戦争目的に貢献するについても、常に忘るべからざるはその特色を活かすことである。その特色を活かしてその特色を利用すればこそ、スポーツ独特の貢献が可能となるのであって、報国の名の下にスポーツの特色を忘れて無反省に時局に迎合するがごとき行動をとることは、まさにスポーツの自殺であり自己否定であると言わねばならない。

見開きで紹介されている国防競技。前年に初登場しました。

 まず第一に、戦争の刺激によって国防競技のごとき直接戦闘技術として役立つ形式のスポーツが生まれたこと(注・1939年の大10回大会に向け制定)はもとより当然、むしろ大に喜ぶべきことであるが、さらばと言うて直接戦闘技術的の形式をとらない在来のスポーツを排斥すべき理由は少しもない。すべてスポーツの特色は勝敗を争う興味の中に自ら身体を鍛練し敢闘精神を養成しうる点に存するのであるから、スポーツの正しき実践によってやがては戦線に立ち、また銃後にあっていかなる艱難辛苦にも耐えうべき体力精神力を養成することこそスポーツ報国の本義であり、戦時下スポーツマンの心がけでなければならない。

 いかに形だけは戦闘技術的の形式をとっていても、それによって心身の鍛練をなしえないようなものは戦時国家の目的に沿わないスポーツの実践というべく、之と反対に形は直接戦闘技術に無関係であってもこれによって鉄のごとき体力を鍛え不屈俯仰の精神を養うに足るものは刻下吾々の最も尊重すべきスポーツでありその実践であると言わねばならない。しかるに、事変この方在来のスポーツを単なる遊戯と同一視して之を排斥せんとするがごとき浅薄なる論説をよく耳にするのは吾等の最も遺憾とするところである。

5種目ある国防競技の一つ、障へき通過競争

 第二に、現在一般民衆によって愛好されている各種のスポーツが例外なく明治この方外国から輸入されたものであるの故を持って、時局柄何となく之を白眼視して、日本人はよろしく日本在来の武道に復帰すべしというような議論をなすものがあり、スポーツマンの間にも、間々この時流に抗しえずとなすがごとき口吻を漏らすものがあるけれども、かくのごときはスポーツそのものの本義を理解せざるのみならず、武道の周囲に漂っている伝統的なものの価値を過重視し武道の価値の限局を忘るるものと言わねばならない。ことに現在一部の学生の間で行われつつある武道のごときに至ってが、いたずらに技巧と勝敗の末とにのみ捉わるるのみであって、果たして心身鍛練にどこで役立つべきか甚だ疑わしいと考えられるものさえある。

 かくのごとき本義を逸した武道の実践が、例えば敵のものすごい集団ドリブルの前に敢然身を投じて味方の危機を救うことを当然事と心得ているラグビーの人々、又常人にはほとんど想像もつかない苦しさに打ち勝ちつつ勝利のために奮闘する陸上の走者や水上の泳手のなすところに比べて、果たしてどれだけの長所をもち日本精神に適合するものをもっているか、およそ武道を解しまたスポーツを解する人ならば、誰しも容易に理解し得るところであると言わねばならない。剣道と拳闘、柔道とレスリング、その優劣を問えば時局柄誰しも容易に手を前者に挙げたがるものであるが、多少とも事情に通じているものは、両者の優劣が事の本体に存せずして、むしろ実践の方法と実践者の心がけに存することを知っているのである。

武道関係も幅広く取り上げています。

 終わりにスポーツが面白いということを何かスポーツの欠点であるように考える人があるらしいけれども、スポーツの面白いことはむしろその長所でこそあれ、決して欠点ではない。同じく栄養をとらせるにしても、栄養になるからと言うて無理にうまくない物を食わせるよりは、うまいうまいと思わせつつ自ら栄養を摂取せしめるように仕向ける方がいいに決まっている。従ってスポーツが武道や体操などに比べて比較的容易に多数人の興味を引きうることはむしろ長所であるのだから、その長所を活かして不知不識のうちに心身の鍛練をなさしめることこそスポーツ報国の本義であると言わねばならない。

 なお、世の中には非常時の故をもってむやみに精神の緊張を要求するのみであって、娯楽によって人心をやわらげることが長期にわたって活き活きした精神力を維持するゆえんであることを忘れている人が少なくないようであるが、正しい娯楽の価値を正しく認識し得ないのはむしろ我国人一般の欠点であって、それがため、とかく事に臨んで焦燥的傾向に陥りやすく、長きにわたってことを大成しがたい欠点を暴露するのだと吾々は考えている。この故に、スポーツが勝敗を争う興味の中に自ら心身の鍛練に役立っていることは、決して排撃すべき短所ではない。戦時下スポーツのことを論ずる人々は、よろしくこの点に思いをいたすべきである。」
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 以上ですが、戦時下はもちろん、わたしたちの日常にもここに挙げた偏狭な精神論や根性論がはびこっていないでしょうか。現状に迎合する部分もあるとはいえ「娯楽も大事」とこの時期に唱えていた人がいたことがいた事実に敬意を表しつつ、現代でもここで警鐘を鳴らされたような極論が、さまざまな場面、さまざまな形で行われていないか。耳を傾ける必要があると思えます。

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