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戦争で人々がどれぐらい熱狂するか、長野県の事例と陸軍省の絵本でどうぞ

 1931(昭和6)年から始まった満州事変では、長野県の松本歩兵第50連隊もまずは上海方面、その後は満州へ転戦して黒竜江省へ馬占山軍を追ったりと、長期にわたって戦場に関わっていました。このため、長野県からは郷土部隊の活躍に応えようと、さまざまな支援などの逸話が生じました。長野県学務部と松本連隊区司令部は、こうした県民の反響をまとめた冊子「満州事変・上海事変に長野県の生んだ美談佳話」を1932(昭和7)年9月1日に発行しています。おそらく、満州事変の発端となった9月18日の柳条湖事件一周年に合わせてまとめたのでしょう。

「この熱!この誠!」と盛り上げ

 はしがきには「美談佳話を蒐集して輯録し之等の事跡を永く県民に伝えるの資を作り且後日の国民教育の資料たらしめたいとするは決して徒労ならざるものと思う」とあり、戦時の盛りあがりを将来の教育に役立てるのが狙いでした。目次を見ると、応召軍人、一般官民、団体、の各部の話題に分かれ、合わせて松本連隊区司令部に寄せられた召集の嘆願書、愛国信濃号献納運動などの銃後の後援状況まとめとなっていて、四六判122ページにわたっています。
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 献金や近所の救済など、さまざまな話題がある中で、血染めの日の丸を出征者に送った話は、現代では異様ですが、当時はその横の栗拾いで得たお金で献金した話などと普通に並べられていて、そうした雰囲気もごく自然に受け止められるような興奮状態だったのでしょう。

血染めの日章旗を渡した話

 また、松本連隊区司令部には、出征するために充員召集をしてほしいという嘆願書が多数寄せられましたが、この中でも「血書」は一定の数があり、覚悟を示す行為として受け取られていたようです。血判と合わせると、嘆願書の3分の1ほどは自分の体を切り、その覚悟を見せているという状況でした。

血書17,血判46と3分の1ほどが自らを傷つけ…

 こうした戦争を支える動きは、軍にとっては実利であり、国民に対する宣伝であり、戦争に疑問を持つことをけん制する力になったでしょう。そして、そうした心がまえを小さな時から与えようとした仕事の一つが、こちらの絵本「恤兵美談 ユウチャントウマ」です。5歳から7歳を対象に想定した20ページ、20銭の絵本で、1942(昭和17)年2月5日発行となっていますが、裏表紙の感謝の言葉に「今事変が起こると共に」とあり、太平洋戦争前に企画されたものです。

表紙。さあ、どんな内容か。

 表紙を開くと、栃木県の女児が蚕を買って得たお金を献金した話が見開きで載っています。

夏休みの間頑張った狐塚とみさん

 その後もユウチャンは登場せず、見開きごとに国民学校の児童による献金の努力の話が1話ずつ続きます。長野県寿村(現・松本市)の少年団員が薪拾いなどで4円50銭を恤兵部に送った話も出てきます。

長野県寿村の薪拾い
家が貧しいので学校から帰って石鹸の行商を頑張る見付達雄君

 こうしてずっと単独の話題が続いていき、ユウチャンも馬も登場しないまま終わります。裏表紙の「お母様へ」のところで、「全国の幼いお子さん達が、今事変に当たって、陸軍に寄せられた涙ぐましい恤兵美談をまとめたものです」とし、はじめて表紙の説明が出てきて、ユウチャンは馬を買いたいと思って集めてきたお金を献金したという、表紙で1つの話でした。

裏表紙で、初めて表紙が「ユウチャントウマ」という一つの美談と判明

 軍は、広く庶民が支えてくれることこそが、戦争を続ける力であることをよく知っています。大きな戦闘や兵士の超人的な活躍など話題があれば盛り上がりますが、日中戦争も長期化し、えん戦気分も出てくると、足元が揺らぎます。そのため、こうした本も作ることで、盛り上げを少しでも図ろうとしたのでしょう。
 この本が発行された時は、太平洋戦争が始まり、連戦連勝で湧き上がっていた時です。おそらく献金もうなぎ上りだったでしょう。そこへ、子どもでもこんなに国を思っていると打ち出せば、効果はより高かったかもしれません。

ユウチャントウマの裏表紙にある感謝の言葉

 さまざまな形で行われる戦争の美談、美化は、いざ、戦争が起こった時に国民を動員するためのカンフル剤のようなものでしょう。ひとつひとつは誠実な思いからでしょうが、これも立派なプロパガンダとなると、戦争遂行という一本道に人々を引っ張っていく役割も果たしていくことになるのです。

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