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戦場は銃弾が飛び交い、命のやり取りをする場所だということを、あらためて実感させてくれる「銃弾」

 表題写真と下写真の銃弾は、後方がゆがんでいますが、中国戦線で戦った兵士が実際に足に打ち込まれた敵の銃弾です。直径7・7ミリ、重さ7グラム。5センチの長さの釘3本分が、この弾と釣り合う重さ。それが秒速770メートルで打ち出され、飛び交う。それがまぎれもない、戦場の事実であることをこの銃弾は教えてくれます。

実際に人体から摘出されたとされる銃弾

 先端は当たった時の衝撃のためかちょっとつぶれ、弾丸の後端は摘出時か着弾時か、いずれかの段階で不規則な形に変形しています。これが体に当たるとどうなるか。内部で放出されたエネルギーが肉体を内側から破壊します。体に残ったのは、かなり速度が落ちてきて、エネルギーが低下していた証拠。おそらく致命傷にはならなかったとみられ、摘出できる後方に後退できたのでしょう。

戦場で役割を終えた銃弾

 当たり前ですが、戦場ではこれがいっぱい飛び交うのです。特に近代になってからは、よりたくさんの銃弾が飛び交うようになっています。そして銃弾は戦闘員と非戦闘員を見分けてくれません。誰もが危険にさらされるような状態になるのです。

 今もウクライナで、ガザで、そして世界のあちこちで、こうした銃弾が飛び、誰かが傷つき、命を失っているのです。

 誰も傷ついてほしくない。傷つけてほしくない。そのために、全力で戦闘を回避できるようにすること。そこに一番力を注ぐことを、政治家や軍人はとにかく大事にしてほしい。銃を向ける先には、必ず撃たれて苦しむ人がいる。そして撃つ側は、撃たれる側でもある。

 長野県の地方紙、信濃毎日新聞の主筆だった桐生悠々は、1933(昭和8)年8月8日の「強迫観念に脅かされつつある日本」と題した「評論」で、満州事変の熱河作戦が幸いに早く終わったのは中国軍に飛行機が少なかったからとして、将来の戦争には空襲が伴うことを指摘し「軍事的、国防的にこれに備ふるよりも、未然に於いて、平和的に、外交的に、これを避けることが、さらに一層重要だといふことである。然るに我が外交当局は、一切を軍隊にまかせきりであって、日支の平和関係を確立すべき、何等の行動を、何等の態度をすらも取ろうとはしない」と、外務省を批判します。
 そして「えらがっているばかりでは、そしてこれに対抗すべく、唯々軍備を拡張しているばかりでは、口に平和を唱えながら、侵略を事としていると疑われても、致し方はあるまい」と言い切ります。見事な慧眼、この時代に、この文を載せた信濃毎日新聞の気骨を感じます。

 現在、不安定な世界情勢を受け、日本も防衛費倍増を実行に移そうとしています。中の人は、それに真向から反対するわけではないけれども、その増額以上に、世界の不安定要素を取り除くことや緊張感を和らげることを、日本政府が、日本の外交当局がどれだけやってきたか。
 それこそ、この90年以上前の桐生悠々の言葉に顔向けができるのか、と問いたいのです。戦争となれば、この銃弾を撃つ人、撃たれる人が必ず出てくる。武力ばかりが安全保障ではないし、他の努力あってこそ、たとえ使わずとも備えた武力が初めて生きるのではないでしょうか。

 この銃弾を見るたびに、戦闘を回避できるよう、ささやかでも力を注いでいきたいと思うのです。日本政府、外交当局も、そんな思いを共有していてくれたらと思うのです。

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