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太平洋戦争下の秋、松本市で警防団が空襲に備えて注意して回ったのは「防火用の桶で漬物を作るな」?

 日本では日中戦争当時から防空訓練が繰り返され、各家庭では焼夷弾に対応するため、消火資材をそろえておくよう指示されていました。信州戦争資料センターが所蔵する大人向けの国策紙芝居「我等の防空 第1部」=1942(昭和17)年11月5日発行=では、こんな感じで説明しています。

防火用水の備えを力説

 普通の家で「5斗5升(約100リットル)以上、二階屋や大きな家ではもっとたくさん」ということです。けっこうな量で、一つにためておける容器もそうはないので、工夫して、あらゆるもので確保して備えるようにとしておりました。

手水鉢、たらい、洗面器も動員しています。

 そのうえで、今年2023年から81年くらい前の今頃、1942(昭和17)年11月12日付信濃毎日新聞=長野県の地方紙=朝刊の記事をご覧ください。(著作権切れで転載。難解な漢字を適宜現代漢字やひらがなに置き換え、句読点を入れました)

 「防火桶に漬物はいけません 松本警防で注意」
 【松本】昨今漬物時期を迎えて松本市内の各家庭では漬物用桶の入手に苦労をした挙句、その一策としてぼつぼつ玄関先に備え付けた防火用水槽を引っ込ませ、万やむを得ず漬物桶に流用する向きが相当あり警防団員の注意を受けているが、この点各隣組長あるいは町内警防団員があらかじめ気をつけて、こうした戦時下恒久的備品たる防火用水槽はその役割を十分認識させ、漬物桶に流用するため引っ込ますなどのことのないよう、事前に注意するよう、警防団本部では各分団へ指令を発した」
 (記事終了)

 えっと…

 ようするに…

 空襲への備えのため、とりあえず空っぽの桶に水を張って玄関先に置いておいたのですが、秋になって漬物の季節になったところ、桶が品不足で全然手に入らないので、やむなく防空用の水を満たした桶に、元の役割に戻ってもらったということ…ですね。

 将来の空襲より目の前の漬け込み

 警防団員も「わかる」「しょうがねえなあ」と、苦笑交じりで声をかけたのではないかと思います。
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 同じころ、1942年11月30日に内務省推薦「防空絵とき」が発行されていて、やはり同じように水を備えることを説いています。

民間の空襲への備えを解説した防空絵とき
各家庭では応急防火に必要な機材を準備する、とありますが…

 しかし、漬物用の桶すら手に入らない物資不足は考慮されていません。既に日中戦争中に、ブリキ製のバケツは資材不足で店頭から姿を消し、代わって木製バケツが作られるようになっていました。そのバケツの材料は、本来なら桶などにするため乾燥させてあった木材が主流でした。玉突きのような物不足の減少が、松本市の警防団の注意を引き起こした要因となりました。
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 一方、物資不足はほかにもトラブルも引き起こしていて、ある隣組ではコンクリート製の防火用水槽を作ったところ、これがセメントをけちったせいか、朝に満たしておいても昼頃には半分くらいになってしまう粗悪品だったとか。計画は立てても、あちこちでこうした不備が起きる中、空襲下でも踏みとどまって火を消せと強制され、悲劇があちこちで生まれることになるのです。


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