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戦時下であろうと無事で帰ってきてほしいのですが、必ず付きまとう「戦死」

 戦争がいったん始まれば、最前線に出される兵士がいるのが戦争というもの。そして、数の多少に違いはあれども、戦死者や戦病死者が避けられないのも戦争。それだけで、戦争をやってはいけないという理由は充分に成り立つのではないでしょうか。誰も殺すことなく退官できて、初めて本当の軍の役割を果たせるといえるのではないでしょうか。
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 信州戦争資料センターには、さまざまな理由で手離されたり、託された「戦死」にまつわるモノたちも集まってきています。そのうちの一部をご紹介し、無くなられた方のご冥福を祈りつつ、二度とこのような犠牲を出す戦争を起こさないよう、力を尽くしていきたいと思います。
 まずこちら、長野県埴科郡五加村(現・上田市)から満州事変に現役兵として1932(昭和7)年1月10日出征、現地で訓練を受け、戦闘にも参加していた中、1933(昭和8)年5月15日に戦死された方の軍隊手帳と、返送するとの長野県松本市の歩兵第50連隊からの説明文です。

1934年になって戻ってきた軍隊手帳
戦死の状況説明
生前の写真と戦死時の記録写真も同封

 戦死者がまだ少なかったころ、出身地の町村では町や村が主催する「町葬」や「村葬」を盛大に行っていました。こちら、長野県下伊那郡喬木村の1937(昭和12)年12月17日に執行する「村葬二関スル業務書」です。

1人ごとに村葬を行っていたころ
葬列などもきちんと決めるのが大事な事務

 下写真は、この業務書にある会場の配置図です。左最前列に遺族と親戚が並び、中央には小学校生徒、男子青年学校生徒、中等学校生徒と、将来の兵役候補者を配置しています。この葬儀の大きな意味合いが、この配置図から見えてくるようです。

将来の兵隊候補が中央に来る配置図

 戦死者が増えてくると、合同葬も行われました。こちら、日中戦争開戦から1年ほどの1938(昭和13)年8月12日、長野県伊那町(現・伊那市)で行った町葬で用意した「霊位」です。6人の戦死者と経歴、そして最後に家族に宛てた手紙を印刷したもので、故人を偲んでほしいとの思いを込めています。

伊那町が合同の町葬で用意
並びは右から階級順に
元気にやっていると伝える様子が切ない手紙

 こちらも同じ年の4月23日、やはり日中戦争の長野県堺村(現・栄村)の戦死者の村葬で、村長宛てに送られた松本市の歩兵大50連隊長の弔電です。

部下への弔電も大切な仕事

 また、地元の在郷軍人会などは、遺族の家に誉を称えるため、特別な表札を用意するなどしています。こちらはかなり大型のものです。

名前を書き込めばよいように準備したもよう

 そして日中戦争の泥沼から無理やり抜け出すために始めた1941(昭和16)年12月8日の太平洋戦争後、長野県は木箱に戦死者の経歴などをまとめられれる記録帳を入れた「忠魂録」を作り、1942(昭和17)年7月から、新盆を迎える戦死者、戦病死者の遺族に順次これを贈っています。きちんと書き込まれたものもあれば、デッドストックのようなものもあります。

木箱で保管できるようにした忠魂録
きれいな表装の「忠魂録」
知事のあいさつ
こちらの伊勢神宮のほか、靖国神社の写真もありました

 太平洋戦争では、島での孤立した戦いも多く、戦死の状況が不明な兵士も多くおられました。こちら、戦後の1946(昭和21)年になってから、遺族のもとに届いた戦死の連絡です。1945年8月14日、戦闘が終わる目前の死でした。そして、敵の手に渡らないようにと遺品になりそうなものをことごとく始末したため、戦死した近くの「白い砂(サンゴ礁)」を送るとあります。戦争が終わっても生死不明のまま待って居た遺族のお気持ち、いかばかりか。

1946年8月2日付の連絡
1945年8月14日の戦闘で戦死と…
戦況を伝える部隊長代理の手紙
情況の苛烈さ、せめてもの白砂を送るとの言葉も切ない

 戦争では、前線にも銃後にも、常に死がつきまとい、それまでの人のまなざしや思いを、ふっと断ち切ってしまうのです。ささやかな生を営む人生をなぜそんな形で終えなければならないのか。終えさせるのは何なのか。常に過去の過ちを見据え、その歩みを今度は間違えないようにしたい。私がこれらの物言わぬモノたちで発信する思いです。

ここまで記事を読んでいただき、感謝します。責任を持って、正しい情報の提供を続けていきます。あなた様からサポートをしていただけますと、さらにこの発信を充実し、出版なども継続できます。よろしくお願いいたします。