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1945年3月10日、3時間の空襲が10万人の命を奪った「東京大空襲」ー覚えておかねばならない、戦争の実態と国の責任

 表題写真は、愛知県内の空襲で米軍の重爆撃機B29から投下されたM69焼夷弾の焼け柄です。金属製のこの筒だけでも1.3キロ。内部に燃焼材が詰まった状態なら2・8キロほど。これが雨のように日本各地に降り注がれました。長野県上田市でも1944(昭和19)年12月9日夜、約80発の焼夷弾が小県蚕業学校に命中、ほぼ全焼する被害を出しました。

M69焼夷弾の焼け柄
安全装置のピンのあった穴。束ねてある焼夷弾が投下でばらばらになると作動状態に。
着地の衝撃で着火したゲル状の燃焼材を吹き出す

 2024年から見て79年前の3月10日、東京がB29、296機による空襲を受けます。事前に偽の陽動飛行があり、去ったとして警報が解除されたところに、従来とは違う低空の高度3000mあたりから、レーダーをくらますアルミ片をまき散らしつつ侵入、空襲警報が鳴るのは最初の爆撃開始から7分後でしたが、当日の強風も相まって、手遅れになるには十分すぎる時間でした。
 この日のB29は夜間低空爆撃には不用として身を護る機関砲も射手も弾薬も下ろし、その分だけ投下する焼夷弾を増やしました。消防庁の記録によりますと、この日投下されたものは100キロ級爆弾6個、油脂焼夷弾45キロ級8,545個、エレクトロン1・7キロ級740個、そしてここでお示しした2・8キロ級油脂焼夷弾が180,305個。これが3時間の間に投下されました。

落下してくる焼夷弾。これが18万個。

 M69焼夷弾は落下を安定させるため、尾部に長い布が付いていました。38発の焼夷弾を集束した爆弾が落下途中、焼夷弾を結束しているバンドを爆発させてばらけさせた時、爆発の炎が布に燃え移って、火の雨が降ってくるように見えたということです。被害は29区にわたり、やく27万戸の家が焼け、やく100万人の都民が住まいを失い、東京の4割が焦土となっています。そして誰も正確には数えられない死者数は、およそ10万人と推定されています(ここまでの東京大空襲の記述は「東京大空襲・戦災誌 第1巻」、「この弾薬箱の片隅に」を参考にさせていただいています)。
           ◇
 これだけ大きな被害になったのは、米軍の作戦、当日の風、密集した木造家屋といった条件もありますが、逃げるに逃げられぬ「防空法」の存在も大きなものでした。
 民間の力で被害を抑えることを目的に「防空法」が最初に制定されたのはまだ日中戦争前の1937(昭和12)年2月で、施行は10月でした。第8条で「防空上必要ある時は…其の区域よりの退去を禁止又は制限する」などとし、違反者には「1年以下の懲役又は千円以下の罰金」と第19条に規定していて、都民には「逃げずに火を消す」防火義務があったのです。
 そんなことが可能となぜ考えられたか。1941(昭和16)年9月3日に政府が発行した「週報」には、焼夷弾攻撃は隣組の手で消し止めねばならないとし、空襲から身を護る防空壕については「積極的に防空活動をするための待避所」とし、爆弾が落ちた次の瞬間には飛び出して消火にあたるとされ「退却を考えずに敵弾と戦えば被害はほとんどない」と言い切っています。

内務省推薦「防空絵とき」で示された簡易待避所
床下利用の待避所(防空絵ときより)

 では、この時の空襲の規模をどう見積もっていたか。焼夷弾が「最も濃密に投下された場所でも1隣組か2隣組に1発ぐらいの割合」としています。確かに爆撃機の性能からいって、当時は艦載機などの空襲を想定し、それなら大きくは外れないものでした。しかし、米軍が「超空の要塞」と称された爆撃機B29を量産している情報をつかみながらも、この想定を変更せず、「爆弾も落ちたらただの火事」などと消火義務を訴えます。

隣組に1-2発なら、これぐらいの対応も可能か(防空絵ときより)

 ちなみに、ここで紹介している「防空絵とき」は財団法人大日本防空協会が1942(昭和17)年11月30日に編集・発行したものです。その内容は、確かに民間で工夫できることですが、大規模空襲に対する備えにはとうてい及ばないもので、漫然と古い考えのままで都市防空を計画した陸軍と政府の責任は重大です。防空に限らず、日本は戦争中の技術や戦術のアップデート速度で完全に米国に引き離され、結果として対応できないので精神主義にさらに陥る一方でした。

焼夷弾も濡れ筵で消せと(「防空絵とき」より)

 「東京大空襲・戦災誌 第1巻」より、深川消防署の悲劇を紹介します。地区隊を合わせ15台の消防車が現場に急行しましたが「焼夷弾の集中豪雨を浴びて、身動きがとれなくなり、慌てて消火作戦を変更しようとしたが、その時すでに遅く二台の消防自動車に直撃弾が命中、隊員もろとも火の塊になってしまった。これを皮切りにして、他の消防車もみな大火流に呑まれ、大勢の隊員とともに、次々と車を焼失して殉職した」。プロの装備でも役立たないのに、女性を主体とした火たたきとバケツでどう立ち向かえと。
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 空襲被害者に対する補償は、戦後も何もありません。裁判でも、許容範囲とされています。こんな切ないことが、許容だと。そのときの政府の、軍の方針だったから、仕方がないと。これでは、何の落ち度もない10万人の都民も浮かばれない。慰霊を何回やっても、根本をきちんと考え直さねば、同じことが繰り返される。亡くなられた方のご冥福を祈ると共に、そのことを強く考える日としても覚えておきたい。 

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