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東京大空襲から2日後、官僚御用達のレストランの食事は豪華なままでしたー戦時下の格差実感

 戦時下でも人々の格差はさまざまにあったと言われますが、なかなか具体的な話は残らない物です。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲から2日後、2024年からみて79年前のきょう、1945年3月12日、長野県平野村(現・岡谷市)出身の童画家、武井武雄は、貴重な作品を「戦中気侭画帳」に残してくれました。

1944年9月から1945年8月まで、東京と故郷での暮らしを描いた

 武井武雄も、東京大空襲を目撃しています。幸い自宅は燃えませんでしたが、建物疎開のため壊されることとなり、故郷に引き上げる目前のことでした。

東京大空襲は何ページにもわたって描かれています

 その武井武雄は空襲2日後に開かれた「日本少国民文化協会」の理事幹事長会議に出席するため、新橋駅にある東洋軒に出向きます。余談ですが、この協会も国策協力のための組織で、愛国イロハカルタをつくるなどしています。途中で見える風景は、一面の焼け野原です。

上野の山から望む
土蔵がぽつぽつ残り、避難先の看板も

 会議が終わり、昼食となります。その日出されたものを、武井武雄は帰宅後、丁寧に描いています。

帰宅後に丁寧に描いたもの。おそらく元絵は色付きだろう。

 柄が両側についたヴィヨンカップとパン皿の間にあるメインディッシュには、魚のフライ、カニの大きなつめ、野菜、それに寄せ物であろうか。

「紙ナフキンなど出す処、当今どこにもなし」
「パンもかかる厚みのもの珍し」

 武井武雄は「ここは内容よしとの事だが、実物を見るに及んで驚いた。今時こんな豪勢な食事をさせる処ありとは想像もしなかった。帝国ホテルも大東亜会館も一流のところ、この半分の内容もなし。みな海草の化け物みたいなものばかり」と余白に書き連ねます。それだけ、普段の自分たちの食事とかけ離れていることが分かります。

 鳥居民は「昭和二十年 第一部9 国力の現状と民心の動向」で、なぜ東洋軒がこれだけの品を出せたかを解説しています。「現在は運輸省と文部省のために店をあけている。運輸省鉄道総局の睨みがきいて、どこかの漁村でボラ網でボラが採れたとの情報が入れば、採れた魚をすぐ最寄りの駅から東京行きの貨車で運ぶ」と。役人が国家の施設を、決戦輸送だ何だと掛け声を挙げながら、自分たちのために利用していたのです。武井武雄は文部省管轄の協会の会議に出たからこそ、このごちそうにありつけたのでした。
 ちなみに「海草の化け物」というのは、アラメやカジメといった類で、食糧の統制外にあったため、誰でも採って食べられたので、最後の食材として大手をふっていたようです。
           ◇
 では、庶民の食生活はどうか。先日、配給(有料)の主食にコウリャンや大豆かすが代用品として配られていることを教わり、配給手帳でも確認できましたが、鳥居民もこの「昭和二十年 第一部9」で書いています。

 当時の男たちは、日記に食べ物のことをどんどん書くようになったとし、1945年5月19日の大森区の浜田知道の日記を例に「何しろ豆粕ばかりに見える飯である。郵便のために、封筒を張り、切手も緘(かん)がついてないのだが、それをやる時に、お櫃を覗き込んでよく探さないと、飯粒のつもりで塗っていても、豆粕なので一向に貼れないのである」(「空襲下日記」より)と紹介しています。
 そんな調子の「主食」でしたが、それでも平均米2合3勺あった割当(有料)が、1945(昭和20)年7月11日には1割減の2合1勺に減らされます。もはや本土決戦どころではない、臣民は飢餓線上にいたのです。

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