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戦地の地元出身兵に、せめて郷土の雰囲気を伝えたいー長野県豊里村から送られた写真集に見る、銃後の雰囲気

 地域をあげて送り出した兵隊のため、何かしてやりたいと、市町村ごとにさまざまな取り組みが行われました。その中の一つに、地元の行事や出身兵士の家族らを撮影した写真集があります。その中の一つで、太平洋戦争開戦間もなくの、一番勢いのあった1942(昭和17)年5月21日に豊里村(現・上田市)翼賛壮年団が編纂した「郷土のかほ里 昭和十七年戦勝の春」を紹介させていただきます。

長野県豊里村(現・上田市)の様子をまとめた写真集

 40ページほどある凝ったものですが、記念撮影が大多数を占めます。これは、兵隊が家族や知り合いを見つけやすいようにとの配慮もあったでしょう。

役場前の忠霊塔と役場関係者

そんな中、最初に登場するのは一番動きのある「大東亜戦争第一次祝賀旗行列」です。解説によると、この日、日本中で行われたようで、盛りあがり具合が通じます。忠霊塔前に集合して万歳三唱したほか、来られなかった人たちも地元の神社で万歳をしたとのことです。

手に手に旗を持ち万歳三唱
ラッパに合わせて戦勝祝賀大行進

 こちらは、地元国民学校でのラジオ体操。母校の雰囲気を伝えつつ、鍛錬の様子を残しています。「健全なる身体に、健全なる精神宿る」「銃後の護りはまづ国民体力の向上にあり」と、とにかく体を鍛えるのが美徳の様子。集落でも独自の運動場を設けるなどしていましたが、子どもにしてみれば、新しい遊び場ができたようなものだったでしょう。

朝ごとのラジオ体操
森集落の運動場開き
春祭余興の子どもずもう。出征家族を中心に招待

 この写真集には写真の説明文だけではなく、さまざまな俳句や詩吟、作文なども載っていました。「国は即ち外敵なければ必ず亡ぶ」「日本国は神国なり」と、威勢良いを通り越している作も。これが戦時下の興奮状態なのでしょうか。

外敵が常に必要って……

 こちらは、小井田集落の出征軍人家族です。何人の方が出征しているかは分かりませんが、これだけ多くの人が兵隊につながっているのです。戦争は苦しみ、悲しみを戦地から故郷まで、幾重にもつなげてしまうのです。

出征兵士の何人が無事帰られたか(´;ω;`)

 家族を残した出征兵士の気持ちに少しでも寄り添えるように、出征兵士家族への農作業支援や勤労奉仕の様子を何枚も上げているのが特徴です。3-4月という、やや農閑期の撮影ですが、雰囲気は伝わります。

食糧増産の国策に副った桑の伐根などを手伝い

 日中戦争以来の戦争の長期化で、農村に化学肥料が回ってこなくなり、自給を求められました。そこで、隣組でのたい肥の積み込みが行われています。食糧増産にも、苗床作りを共同作業で行っています。
 食糧危機になったらすぐサツマイモをつくれなどと最近声が出たようですが、それが空論であるのは、こうした写真からでも伝わってきます。

隣組による自給肥料の積み込み作業
サツマイモの苗床ができて一息、といったところ

 小井田集落全景写真は、1942年3月25日の撮影。説明文は「大東亜戦争下にこんな和やかな風景が見られるのは、日本以外何処にあるだろうか」と酔っています。そりゃそうだ。日本は明治維新この方、戦争といえばわざわざ外国へ出かけて行ってやっているのだから。この方たちには、あずかり知らぬところの日本の誰かが計画を立て、日本以外の各地で、この和やかな風景を作れなくしているのですよ。

小井田全景

 最後に、太平洋戦争開戦の感激を書いた子どもの作文も載っていましたので、紹介させていただきます。少年航空兵になりたい! と強く思わせた日本軍の快進撃は、あと数週間で頓挫してしまうのです。

勝利を願い神社参拝
校長も少年航空兵の話で盛り上げ

 そして、子どもたちを煽った教育者の責任も免れないでしょう。これが、教育勅語の「義勇公に奉じ」の体現なのでしょうが。国とは何か。国と国民が上下関係になったらおしまいですね。それが長い戦争を通して得た教訓ではないでしょうか。

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