さまざまな文化人が戦争に間接的、直接的に協力した戦時下日本の残したモノ
戦争が始まると、例えば肉弾三勇士にあやかった大量の商品が出回るなどして、その気がなくとも戦争気分を盛り上げていくことがあります。多くの文化人も、その時々に合わせたものを作り、結果として戦争の後押しをした例が少なくありません。
表題写真と下写真は、戦後、人形師とした初めて無形文化財となった原米洲氏(故人)の作品で、日中戦争下の1938(昭和13)年1月に、少年兵らの人形とともに作られた「銃後を護る愛国少女」の人形です。
こちらの作品は、高島屋で当時の価格で5円で販売されていました。
原氏は戦後、胡粉を使って仕上げたひな人形などで知られています。戦時下の人形も、戦争への賛否に関係なく、作品に全身全霊を打ち込み作っていたのでしょうか。以前、出征旗を依頼されていた達筆の方が、やはり同様にそんな思いを語っていたということなので、職人気質が強いほど、そんな感じで作られたのかもしれません。
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こちら、現在の長野県千曲市出身の近藤日出造氏が編集を務めていた太平洋戦争当時の風刺雑誌「漫画」です。体制翼賛会宣伝部推薦とあり、これによって戦時下を乗り切れる護符としたのでしょう。毎号の表紙とメインの絵を近藤氏が、その他さまざまな方が担当していて、投稿蘭もあります。こちらは1942(昭和17)年11月号で、表紙をチャーチル(特に解説はありませんが、演奏をさせようとしてもうまくいかないので指揮棒を下せないというところでしょうか)、メインはルーズベルト大統領の特使として各国を訪問したウェンデル・ウィルキー氏を揶揄する内容としています。
そして戦後、文化人はまた、それぞれの、戦争から離れた仕事に戻っていきました。近藤氏は、題名も体裁も同じ「漫画」を戦後も発行しています。
今度は大政翼賛会という後ろ盾もありません。社会一般に受けねばなりません。1946(昭和21)年9月号は、表紙を食糧確保に苦労する農相とし、メインは誰一人真面目に論議をしていない国会の様子です。
国策紙芝居を描きまくった小谷野半二氏も、フクちゃんで戦時国債購入を呼び掛けた横山隆一氏も、皆、戦後は戦争を離れた題材に移っていきました。近藤氏は後年、カネをもらえるなら何でもやるという趣旨の言葉を残しています。戦時下では戦争に協力せねば、画材も入手できなかったでしょう。積極的にか消極的にかは別にして、生き残った文化人は、あるいは反省をして新しい気持ちで臨んだのか、あるいは仕方なかったと納得させて仕事を続けたのか。その胸中は今となっては分かりません。
ただ、確実なのは、戦時下において戦争推進の波に従わずにいることは、相当な困難を覚悟しなければならないということでしょう。その手前の準戦時体制を政府が作る前に、断固として突っ張る意気地が文化人、そして国民にも必要なのではないかと思えるのです。
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