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中国との戦勝の一時を飾った羽子板

 2024年元日は震度7の能登半島地震が発生、中の人の長野市の自宅も震度5弱、長周期の長い地震動に怖い思いをし、2日は救援物資を積んだ海上保安庁の航空機と旅客機が羽田空港で衝突炎上するというとんでもない事故と、災難が続きの幕開けとなりました。
 ところで、最近はすっかり見かけなくなった羽根つき遊び。路上で遊ぶこともできないし公園の規制も厳しい、庭は狭い、墨で汚し合いっこなんてしたら親に何を言われるかー。すたれるべくしてすたれた感がありますが、戦前はもちろん花形のおもちゃ。飾りにもしておけるよう、見事な仕立てを施したものもありました。
 こちら、正確な年代は不明ですが、提灯の皇軍万歳、日の丸、「銃後護…」まで読めるたすきをした、着飾った女性の飾りが付いた羽子板です。

戦時下を思わせるものがなければ普通の羽子板

 あくまで推定になりますが、布もぜいたくに使い、丁寧に作られた様子、皇軍万歳の提灯などから、1938(昭和13)年の正月に向けて発売されたと推定しました。前年の7月から始まった日中戦争は、日本軍の連戦連勝で、12月には中国の首都、南京を陥落させるなど、勢いに乗って明けた正月。まだ物資不足も感じられず、日本国中が勝った勝ったと浮かれていた時期のものとすれば、合点がいくと思います。

金色の紙なども使って華やかな模様も平時と変わらず

 きれいな着物で着飾った女性ですが、日の丸に提灯は「皇軍万歳」、満州事変ごろから皇軍という呼び方は普通になっていました。たすきは、特定の団体を刺激しないように「銃後護持(推定)」としたのでしょう。銃後の支えが叫ばれるのも、日中戦争あたりからでしょうか。

羽子板の羽根突きに使う側は緩い

 裏は一転して緩いものですが、まあ、実用を考えれば仕方ないことでしょう。
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 1938(昭和13)年の正月は、長野県からも松本市の歩兵第50連隊が満州方面、臨時編成した150連隊が南京を攻略してから北支で引き続き戦闘中という状態でした。そんな中、長野県内は軍需景気にわいており、長野市の初売りでは大型店が混みあったほか、上田市の八日堂縁日も「ぐんと戦勝の景気」という状態。松本市や上田市ではパチンコ店が乱立し、人々は高給を求め、割に合わない女工や商店員が不足するーという状況でした。
 2月に入って「午後11時以降の歌舞音曲停止」となりますが、いかににぎわっていたか、そしてその時間まで騒いでいた世相が伝わります。
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 一方で、国家総動員法が成立したり、翌年にはコメの不作や電力危機、そして1940(昭和15)年には隣組を整備しての配給制度導入(有料)、そしてまだ太平洋戦争が始まらないうちに、1941年には金属回収も国家総動員法によって始まります。この羽子板は、そんな下り坂を下がっていく前の、戦争景気の一時の様子を伝える品なのです。

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