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文系と理系の判断基準の違い(1)

プロジェクト管理における判断(できる/できない)は担当マネージャーによって見解が分かれることがあります。スケジュール、予算、技術的な制約など、根拠は様々ありますが、ここで注目したいのは、いわゆる「文系と理系」の考え方の違いが、判断に影響を及ぼしている可能性です。

この問題について、まずは統計学の「仮説検定」から検証してみます。

コロナ禍のPCR検査で「偽陽性」という言葉を耳にされた方は多いと思います。統計学では「判定ミス」の種類を以下に分類することができます。

偽陽性(第一種過誤、タイプ1エラー):帰無仮説の棄却
 感染していないのに、感染している(陰性なのに陽性)と誤って判定してしまうこと。
偽陰性(第二種過誤、タイプ2エラー):対立仮説の棄却
 感染しているのに、感染していない(陽性なのに陰性)と誤って判定してしまうこと。

偽陽性と偽陰性

統計学から受ける印象として、シロかクロに「自動的・機械的」に判別されるように感じられますが、グレーゾーンを判別する基準(閾値:有意水準α)を設定するのは人間です。つまり、人間の意志によって判定結果が左右されます。

この「グレーゾーンの判定基準」は、検査の性質にも影響を受けます。
例えば、PCR検査の目的は「感染者の隔離」ですから、感染者を「取り逃さない」ために「疑わしきは陽性」と判定します。少しでも可能性があれば「陽性」と判定(偽陽性に寛容、偽陰性に厳格)しなければいけません。
反対に、新薬の治験などは「治療に効果がある」ことを確認するのが目的なので「効果がなかったのに、あると誤判定してしまう」ことを避けなければなりません。効果があった症例は見逃しても構いませんが、効果がなかった症例は取り逃さない設定(偽陽性に厳格、偽陰性に寛容)になります。

PCR検査と新薬治験の違い

以上のような特性を踏まえて、理系と文系の「異なる傾向」について解説されていたブログがありました。事例として挙げられているのは、

・物理学者は「絶対に正しい」と確認できるまで発表したがらない が、
・経済学者は「間違っている可能性がある」前提でも発表してしまう。

 といった傾向の違いです。

第一種過誤を避ける自然科学者、第二種過誤を避ける社会科学者

himaginary’s diary

自然科学分野の研究者は、一度でも誤った発表をすると「キャリアに致命傷を負う」ために厳密な正解を求める一方、社会科学分野では、誤りがあれば次の論文で「上書きすれば良い」ために寛容である、と解説されています。

確かに、理系分野で犯したミスは、捏造や改竄の疑いを掛けられてスキャンダルになり、研究者が再起不能のダメージを負うことがあります。
一方で、マスメディアでよく見る政治経済系の学者は、その時々で矛盾するコメントを述べながら(時には明らかに間違って炎上しても)活動を続けることが容認されています。
この非対称な「厳格さと寛容さ」の性質から「理系は偽陽性、文系は偽陰性を避けようとする → 理系は確実性、文系は可能性を求める」と解釈してみると、わかりやすく「違い」が理解できそうです。

では、これがビジネスの現場にどんな影響があるでしょうか?
売上目標を背負って「積極的に受注したい」営業マネージャーと、納品責任を背負って「リスクを抑えたい」開発マネージャーの温度差は、客観的にも理解できると思います。経営部門としては、多少の無理は承知で案件は多く請けたいので、「経営・営業 vs 開発現場」で見解が対立して押し問答になることがあります。

本来は「スキルやリソースが足りているか」「足りない場合どうするか」といった相談が必要なのですが、各マネージャーの判断の「背景」を理解しないと議論が噛み合わなくなります。(過去に「現場のやる気がない」と経営幹部から不満を打ち明けられたことは少なくありません・・・)

どちらが正しいか?ではなく、「確実性と可能性」双方の見解として耳を傾けると、判断に必要な情報が多角的に得られると思います。

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