The Haves & Have Nots

学校のリソース不足の問題はほんと深刻。

それは「ヒト・モノ・カネ」。「モノ」は、そのまま資材や資料でもあるし、「モノごとを進める工夫やデザイン」とも言っていい。

このリソースがないのに、なんとかしようとすると、属人的マンパワー(残業・自腹)でなんとかするしかない。個人がボロボロになるまで頑張ることになる。

ひょっとしたら、できる人、やれる人がいて、なんとかできちゃうこともあるかもしれない。でもそれは「持ってた」から。努力と苦労の賜物だったのかもしれないが、何らかの恵みやラッキーなのであって、どこででも誰にでも起こるものではない。知らんけど。

できる人、やれる人にとってしてみれば、なんでこんなことができないの、なのかもしれないが、見たことも聞いたことも、ましてやったことがない「学校2.0」的なことにどうして進んで前のめりになれるだろうか。学校の教員といっても、圧倒的多数は「フツーのおじさん、おばさん」なのだ。(新卒の若い人だって、そんな学校経験ある人とない人で真っ二つ。「学校」への適応度が高かった「いい子」だった若手が途方にくれるのを見るのはツラい)

こと探究活動にしても、ICTでの学習にしても、いまさらの「アクティブ・ラーニング」にしても、経験値を上げていくことは、進取の気性にあふれた健全な同僚性が職員室に存在するか、強権的なトップダウンがあるならまだしも、一人二人の教員の思いつきでできることではない。
それはどうしても「属人化」にならざるを得ない。そんな人はどこか限られたところにしか存在しない。

世の中の非凡な人たちは、さまざまなセミナーや研究会に颯爽と登場し、取り組みの確かさと達成を「すごい」「こんなに」「驚き」「先進的」と強調し、
しかしそれは「たいしたことではない」「だれにでもできる」「自分も苦労してきた」と謙遜して見せる。
壇上でお仲間とキャッキャとはしゃいでいて、
ときおり下に降りてきては、そんなやり方ではダメだ、と否定し、
みんなこれをやったらいいのに、なぜ同じことをやらないのかと不思議がる。
それが残酷に、凡人を殴っていることにはすぐれてイノセントに鈍感であり、
それが「パンがないのだったら、ケーキを食べればいいのに」無自覚にそう思っていることに気づいていない。そしてSNSのエントリはきらびやかな成果で埋め尽くされ、多くのイイねとコメントであふれていく。

きっと持たざる者の僻みなのだと思うし、受け止めの歪みなのだと思う。同じ夢や未来を見ようと思ったこともあったが、近づけば近づくほど「お仲間」から疎外される。身に覚えのない説教を、打ち消しの言葉を浴びせ続けられ、ワタシはもう疲れてしまった。

アベンヂャーズもジャンヌ・ダルクもここには来ない。だから、「属人化」以外の選択肢が必要なのだ。

だとしたら、(外部)委託・代行の活用しかない。

どこかの業者がつくっているワークブックを買ってきて、穴埋めをさせるほど「情けないこと」はしたくないと思いつつも、でもそうしなくては回せないときだって、ことだってある。学校のオワコンはそこまできている。

しかも学校という組織はPDCAサイクルで回っている前例踏襲システム。

外部化したことがない業務は、「本来内部で完結すべき範囲内だ」という力学が働く。でも内部でやれっこないから、こうなっているのであって、結局「見送り・検討・先送り」になるしかない。(で、ふりだしにもどる←だからワタシは「システム思考」とかの類を言う人を信用できない)

停滞を動かすには、たとえそれがカタチであっても実践、実績を積み重ね、騒ぎ、注目をあびるしかない。「モノ」ごとを起動させ、「ヒト」を動かす。学校の外に生徒を出し、外から生徒に関わってもらう機会をつくる。生徒が動けば、その学びの進歩に周囲も動き出す。学びを止めさえしなければ、「ヒト」もきっと変わる。内部外部のリソースを引き寄せ、つなぎ、活用できる「ヒト」の育ちを俟つ。その実りを得るまで事業に必要な「カネ」を(どこかから引っ張ってこなくてはならないとしても)継続させる。これは将来・未来への投資なのだと考えたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?