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癒しを人間に求める不合理さについて

インスタストーリーでの話題を募集した企画の第二段。(第一弾はこちら
癒しを自覚的に求める人は、自分が疲れていることを自覚している人だと思う。

「癒されて〜」
「最近癒しが足りない」

彼らが癒しを求めているのは、実際にそうかは置いておいて、おそらく自分が癒しを求めるに値するほどに疲れている、そう思っているからだろう。

「癒し」を与える代表的事例として、「推し」がいると思う。それが三次元アイドルであれ二次元の住人であれ、あるいは自分のリアルな知り合いであれ、推しには強烈な癒しの力がある。疲労困憊の我々を笑顔で救ってくれる、それこそが推しである。

しかし「推し」や「癒し」は、私たちの心身の疲労を根本的に解決するようなものではない。仕事や学校が疲れているから推し活をする、しかしそれで仕事や学校がなくなるわけではない。疲れの根源は推しがいようがいまいが残り続ける。

つまり、このような意味での「癒し」は、疲労の原因を取り除くわけではないが一時的に気分を向上させ、ちょっとのあいだ生きやすくなる痛み止めのようなものである。

痛み止めを使う際の重要な特徴として、短いスパンで使い続ければ効果が薄くなっていくというものがある。癒しも同じではないだろうか。この疑問を言い換えると、以下のようになる。

同じ「推し」を推し続けることは、果たして癒しとして永遠に機能し続けるのだろうか。

個人的には、そんな気がしない。ある時は好きだったyoutuberが、ある日を境に全く興味がなくなり、別の美人youtuberの動画を見るようになることがよくある。要するに、飽きて別の要素が欲しくなる。

もしこれが正しければ、「推し」には賞味期限があるということになる。その期限を過ぎれば、それは癒しとしての本来の効果を失い、私たちの疲れを回復することができなくなってしまうのだ。

また「推し」を、疲れの根本原因を除去しない痛み止めとして考えるということは、「推し」のことを単に疲れを取るための道具として見ているということである。

もしそうであるならば、人間、特に恋人などの関係が近い人に対して「癒し」を求めるのは間違っているということになる。なぜならば、それは第一に道徳的に不適切であるし、第二にそれは合理的でもないからである。

第一に、例えば恋人を癒しをもたらすための道具として利用するのは、恋人を利用しているということでもあり、カントの「人を道具ではなく目的として扱え」という格率に反することになる。恋人に癒しを求めるのは、非道徳的なのである。

第二に、恋人に癒しを求めることは、端的に不合理である。なぜなら恋人(関係の深い友人でも良い)は自我あり、あなたに反抗する意志がある。そのため、癒されたいと思って一緒に時間を過ごしても、あなたの思い通り痛み止めとして振る舞ってくれる保証はどこにもない。むしろ、あなたに反抗してくる人の方が、よほど人間的である。したがって、癒しをもたらすどころか疲れを増すような存在でもある恋人ないし別の人間に、癒しを期待するのは合理的ではない。

ここから言えるのは、癒しは関係の近い人間に求めるよりも、フィクションやロボット、動物などの完全にコミュニケーションが取れない他者、自分の意思に反抗しない他者に、求めるべきであるということである。

よろしければぜひ