見出し画像

暇、遊びがよくないという風潮について

インスタのストーリーで募集したテーマについて書いてみるシリーズの第一弾。投稿してくれた人が満足するような文章になるかはわからないが、自分が満足するような文章を書こうといつも通り頑張ってみる。

テーマは表題の通りである。どうやら、この投稿者の周りではそういう風潮があるらしい。あると言われればある気もするが、そこまで強い風潮ではないだろうという直感もある。

色々考えていく前に、2つほど前提を加えておきたい。まず第一に、投稿者が僕と同年代だったので、基本的に大学生くらいの年齢の話として、このテーマについて考えてみる。要するに、「暇である」「遊んでいる」という動詞の主語を大学生として考えてみたい。よって考えることは、「大学生が暇である、遊んでいることはよくないという風潮について」となる。

第二に、そもそも暇と遊びは異なる。究極的に暇な人は遊びすらしていないし、逆に遊んでいる人は暇ではない。もっとも、遊んでいる人になぜ遊んでいるのかと問いかけて、暇だったからという答えが返ってくることは想像できるが、やはりそれでも暇であることと遊んでいることは両立しない。

以上を踏まえて、「大学生が暇だとよくない」という風潮を考えた後に、「大学が遊んでいるとよくない」という風潮について考えていく。

大学生が暇だとよくないという風潮

まずは暇であることについて。大学生が暇だとよくないという主張がどういった背景でなされるかは、そこまで難しくないと思う。私見も混じるが結論を言ってしまえば、「若くていろんな経験・学びができるのに何もしないなんて勿体無い」ということだろう。

詳しくみていく。まず「いろんな経験・学び」とは何だろうか。それはおそらく、年を重ねると様々な制約によりできなくなるような経験・学びのことだろう。例えばそれは勉強やバイト、全力で打ち込める部活動などが典型例として挙げられる。学生という身分を活用していろんな大人の力を借り、起業に挑戦する人もいた。いろんな経験・学びができるのに、それを活かさないなんて勿体無い、ということである。

「大学生が暇だとよくない」=「その時にしかできない経験をするべきである」が正しければ、この主張2パターンに分かれることになる。

第一のパターンでは、大学生にしかできない経験が将来に役立つからという理由で、その時にしかできない経験をするべきである、というものである。

田中は大学ではアメフトの部活に打ち込んでいた。部活では毎日地道にトレーニングをすることの大切さを学び、またキャプテンを務めチームメイトを束ねる経験もした。田中のこの経験は、会社に入って毎日コツコツ仕事をこなす時や、プロジェクトのリーダーを務める際に大いに役立っている。アメフトというスポーツ、また部活という熱狂的な集団的営みに多くの時間と体力を割けるのは、人生において大学生の期間のみである。田中の部活での経験は、大学生にしかできないものであり、さらにそれがその後の人生に役立っている。

上の例は、大学生でしかできない経験かつそれが将来のために役立っているというものである。この意味で「大学生が暇だとよくない」と主張されるのであれば、それを言っているのは大学生を既に経験した人々、いわゆる大人だろう。小学生が「将来役立つからアメフト部が良いよ」と大学生にいったところで説得力は0である。既に経験した大人が言うからこそ、この主張はそれなりに納得感がある。

こう考えれば、「大学生が暇だとよくない」=「その時にしかできない経験をするべきである」は、大人からの良いアドバイスであるように思われる。ただ、それが強制力を持ってしまうと、押し付けるんじゃない、と反抗したくなる。

第一のパターンをまとめると、「大学生が暇なのはよくない」は、大人によるありがたきお言葉であり、大学生のうちにしかできない経験が将来的に生きるよ、と言うことを言っている。

第二のパターンは、別に将来役に立つかはわからないが、大学生の間にしかできない経験はそれ自体として良いものである、と言う理由で、大学生が暇なのはよくない、と言う路線である。

アメフト部の田中は結局、WEBライターとして就職することになった。そこではアメフト部でのトレーニングやキャプテンの経験などは、全くつながらず、新たに0から様々なことを学ばなければならなかった。しかしそれでも、部活での経験は田中にとってかけがえのないものであり、それが将来役に立とうがたたまいが、田中にとってそれ自体として良いものだったのである。

この意味で「大学生が暇なのはよくない」のであれば、それはつまり、「大学生のうちにしかできない経験はそれ自体として価値がある」と言うものである。

第一のパターンに比べて、第二のパターンは擁護が難しい。なぜなら、どんな経験に価値を置くかと言うのは結局、個人の好き嫌いによるところが大きく、相対主義的にしかならない。さらには、「暇してるくらいだったら部活でもやれ、いい経験だから」とOBの田中さんに言われたところで、「俺は暇であることに価値を置いている、俺にとって暇であることはそれ自体としていい経験である」と反論する余地がある。

よって、仮に「大学生が暇であるのはよくない」が正当性を持つのであれば、おそらくそれは第一のパターン、つまり、大学生のうちにしかできない経験が将来の役に立つよ、と言うものであろう。

大学が遊んでいるとよくないと言う風潮

こちらは正直、少なくとも僕の周りではあまり聞かない風潮である。僕が会ってきた大人は、遊びについては、「若いうちに遊んどきな」「今のうちに遊んどきな」と、積極的に擁護する気がするのだ。

仮に遊びは良くないという人がいれば、それはどういった主張だろうか。

遊びはそれ自体として悪いと言っているのだろうか。確かに、それ自体に悪さを伴う遊びもある(例えば人を傷つけるもの)が、遊びは良くないという人たちはそういうことを言っているのではないだろう。

むしろ、「遊び以外に成長につながることをしろ」と言っているのではないだろうか。遊び以外の候補としては、やはり部活だったり学問だったりインターンなんかがあると思われる。

成長につながるで言えば、遊びが成長につながると言う人もいる。「女遊びをして男として成長した」「飲み会をしまくってコミュ力が向上した」云々。先ほど述べた、僕の周りの遊び擁護論者たちも、こういった類の人である。

こう考えると、遊び擁護論者も遊び反対者も、成長につながるか否かと言う観点で遊びの良し悪しを判断している点は共有している。彼らが意を違えるのは、「遊びは成長につながるか」「遊び以上に成長するものはあるか」と言う点においてであろう。

「成長」は途轍もないビッグワードなので、色々な文脈で都合の良いように使われる。典型的な使われ方の一つに、イデオロギーの押し売りが挙げられる。例えば、「遊びは成長につながる」と述べる人は、単に自分の成功体験に酔いしれてそういうことを言っているだけであるように思われる。

これらの風潮がなぜうざいのか

このテーマを投げかけてくれた人は、この風潮をうざく感じていたり、何となく不満を抱えているのだと予想している。なぜなら同じ大学生として僕がそうだからである。

ここまで考えてきたことを踏まえると、結局大人でない人が感じるお馴染みのうざさに回収される気がしている。要するに、大人の押し付けがだるい、と言うだけではないだろうか。

暇がよくないと言う風潮も、遊びがよくないという風潮も、要は成長につながる有意義なことをしろと述べているだけである。さらに、それは時折ただのイデオロギー主張になる。根拠の薄い自分語りは誰にやられてもそこまで良い気分のするものではない。

しかしそれだけではないと主張したい。上で述べたようにある大人という発言主体が明確にいるのと、単に風潮となっているのとでは、大きな違いがある。それは、明確な主体がいれば目の前の大人に対して「それはお前の感想だ」と言える余地があるが、風潮となり特定の発言者がいないとなると、それはある種規範となって無言の圧力として降りかかるという点である。

例えば、「部活動をしろ、将来の役に立つ」と目の前で父親が言っている場合、これに対して「それはお前の体験でしかない」とか「そんなもの知るか」という反論が可能である。

それに対して、「部活動をした方が将来の役に立つらしい」が風潮だとすると、反論することは一気に難しくなる。

「なぜ部活動をした方が良いのか?その根拠は何か?」と言っても、まずは数の暴力で「そういうもんじゃん」と言われることの方が多い。

しかしそれ以上に重要なのは、なにより風潮だから、誰を論破すれば解決するのかわからない。目の前で父親が発言している場合は、父親を説得すればそれで試合終了である。それに対して、風潮は、誰を倒せば良いのか、誰を論破すれば良いのかが見えない。反論すべき敵が見えづらいのである。

「社会それ自体が敵だ!」とすることもできるかもしれないが、今度は社会とは何かというこれまたとんでもない問題が残っている。これは簡単に答えを出せる問題ではないし、それゆえに、結局敵が誰かがわからない。

まとめ


まとめる。この風潮のうざさ、不満は何からくるのか。まず第一に、大人の主張の押し付けである点がうざい。そして第二に、風潮としての「暇、遊びはよくない」は、倒すべき敵が不明確であるが故に、つかみどころのない不安、そしてどこに反対意見をぶつければ良いのかがわからない点に、不満を感じているのだろう。

よろしければぜひ