見出し画像

看護師が経験した初めての死

この記事は、ある病院で経験した患者さんの死について書いています。
あまり触れたくない方はスルーしてください。


1.老人病棟

今から30年ほど前のことです。
私は准看護師の資格を取得し、正看護師の資格を取るまで看護短大に通いながらアルバイトをしていました。
中学生の頃、遠い親戚の葬儀に親に連れられて行ったことはあるものの、身近な死はこのときが初めてでした。

その頃は老人病棟という病棟がありました。
100床くらいの民間の病院で、そこには10年も20年も入院しているおじいちゃんやおばあちゃんが少なくありませんでした。

まだ老人ホームなど少なかった時代で、病院とはいえ、もはや住んでいる状態でした。
すでに家は処分されていて、以前は廊下にタンスなどの家具が並んでいたそうです。
最期をここで迎えることが決まっている方々でした。



2.最期を迎える準備

“きみちゃん”と呼ばれている85歳のおばあちゃんがいました。
ある夜勤のとき、出勤するなり、もう一人の先輩看護師が「今夜が山かも」と言いました。
他の患者さんの食事介助、洗面介助、オムツ交換、配薬、片付けものをして、消灯後に一段落した頃でした。

「きみちゃん、そろそろみたい。ご家族に連絡してくれる?」と先輩ナースから言われました。
ふと見ると、詰め所にモニターが置いてあり、きみちゃんの心拍がピッピッと出ていました。

きみちゃんの娘さんももうおばあちゃんですが、病院から歩いて10分ほどの所にお孫さん家族と一緒に住んでいました。
電話をすると「そうですか…、今から孫をお風呂に入れるところなので、済んだら行きます」とのことでした。
しかしながら1時間経っても2時間経ってもご家族は来ませんでした。


私は准看護師の資格があるとはいえ、学生でアルバイトなので夜勤はサポート役で入っています。
ベテランの看護師がペアになっているので一人で責任を背負うことが無いように配慮してくれています。

「せのさん、休んでていいわよ。何かあったら声かけるから。」と言ってくれましたが、とてもそんな心境ではありません。
これから何が起こるのか、処置は何もしないとは言え、きみちゃんおばあちゃんが最期の時を迎えようとしていると思うと、ご飯も喉を通りませんでした。

心拍数が下がり始め、夜勤の医師がきみちゃんの様子を診に来ました。
先輩ナースが「今度は私が家族に電話してみるね」と言ってかけました。
しばらく電話でやり取りをしていましたが、電話を切った後あきらめのようなため息をつき「あかんわ、今孫を寝かしつけてるから来れないって」と。

えー、自分の母親が亡くなるというときに…
歩いて10分なのに…
理由はいろいろあるだろうけど。
そんなものなの?…



3.認知症だけど女性だった

しばらくして先輩ナースが私に「きみちゃんのところに行って見ててくれる?私はこっちでモニター見とくから」と言いました。
私は頷いてきみちゃんのところに行きました。

きみちゃんは色が白くて、透き通るようなきれいな肌をしているおばあちゃんでした。
農家さんだったと聞いて驚いたことがありました。
普通の農家さんは、年中日に当たっているので皮膚は茶色くてシワシワで、手もゴワゴワしています。
ところがきみちゃんはスラっとした細い指で、何故そんなに肌が白いのか謎でした。

きみちゃんは重度の認知症です。
言葉を話すどころか、声を聞いたこともありません。
ナースコールを押すこともないですし、不満や文句を言うこともなく、いつも静かでした。
だから余計にみんなが気にかけていたのかもしれません。


だけどオムツ交換のときだけは違いました。
腕も足も屈曲して拘縮していますが、オムツを替えようとすると軍神の力で抵抗します。
私たちが布団を取ろうとしてもギューッと握って離しません。
オムツを外そうとすると、私たちの手をギューッと握ったり、足をキューっと縮こませて抵抗するため、2人がかりでしなければなりませんでした。

たぶん、きみちゃんは女性としての羞恥心を最後まで持ち続けていたのだと思います。
ときに私たちは爪で引っかかれたり、つねられたりしました。
きみちゃんは「なにすんのよ!」と毎回思っていただろうと思います。

可愛くて、きれいで、みんなから愛されているきみちゃんでした。



4.諸行は無情

深夜12時を過ぎた頃だったと思います。
私はきみちゃんのそばに行きました。
手首で脈を看ましたが、触れるか触れないかの弱々しい状態になっていました。
肘はどうだろう?と触れてみると、大丈夫でした。

血圧計で測定しなくても、モニターが見れなくても、およその血圧を推測することができます。
腕で脈拍がとれるうちは、血圧は60mmHgあります。
腕でとれなくなった場合は鼠径部でとります。
鼠径部で脈が触れるうちは、血圧は30mmHgあります。
鼠径部でも触れなくなった場合は頸動脈をとりますが、このときはもう30mmHgを切っているので、心拍が止まる頃です。

腕で脈がとれなくなり、私は鼠径部にそっと触れました。
あれほどオムツ交換を嫌がっていたきみちゃんですが、もう抵抗する力はありませんでした。
引っかかれたこと、つねられたこと、笑いながら格闘していた夜を思い出し、きみちゃんの顔を眺めていると当直の先生が来ました。

「どう、脈触れる?」
「鼠径部で何とか触れてますが弱いです…」
それからしばらく、当直の先生と私ときみちゃんの静かな時間が過ぎました。

心の中に、今まで考えたことのない言葉が流れてきた。
(人は何のために一生懸命生きるのだろう…?)


きみちゃんは、戦後のもっとも苦労した時代に生きた女性。
懸命に畑仕事をしながら家族を守ってきたのだろう。
生きるか死ぬかの瀬戸際の、母としていちばん厳しい時代だったと思う。
きっと生きるために必死だったろうな…

今、ひとりの女性の人生が今終わろうとしている…
そのきみちゃんおばあちゃんの最期の瞬間を、こうしてバイトの私と、バイトの先生が看取っているなんて。
申し訳ない気持ちになった。

きみちゃんは何のために頑張って生きたのだろう?
人は何のために生きるの?
いつか死ぬのに…
きみちゃんの白い顔を眺めながら、心の中に言葉が押し寄せて来た。


鼠径部では脈が触れなくなっていることに気づき、首のところに手を当てた。
私はきみちゃんの拍動を掴もうとしたが、その瞬間、指先から遠ざかるように消えていった。
先輩ナースが部屋に入って来て、静かに言った。
「先生、フラットです」

あ…
きみちゃんの首から手を離したとき涙が溢れた。
ごめんね、バイトの私で。
私なんかでゴメンね…
でも、ありがとう。大好きだよ。

人が亡くなるときというのは、こんなにあっけないものなのか。
きみちゃんはスッと消えるように亡くなった。
私たちはドラマを見過ぎて勘違いしているのかもしれない
命って儚いのかも…

26歳のとき、看護師になって1年目でした。



5.生と死は隣り合わせ

翌日、夜勤を終えて帰宅したものの、なんだか空っぽな感覚でした。
いくら考えても答えが見つからない。

だけど心の中で何度も投げかけていました。
(人は何のために死ぬのだろう?)
そうすると、決まってその後にこの言葉が続きます。
(人は何のために懸命に生きるのだろう?)
繰り返し、繰り返し流れてきます。

死の意味を探そうとすると、必ず生きることの意味探しになっていきます。
生きることの意味を見つけようとすれば、いつか死ぬのに…という言葉に着地してしまうのです。

どんなに頑張って積み重ねたとしても、私たちはいつか必ず去ります。
そのとき家族だろうと家だろうと、想い出の写真だろうと、私たちは何も持っていくことができない。
じゃあ私は明日から、何のために頑張ればいい?何のために働けばいい?

頭の中はグルグルしたまんま。
ただ、きみちゃんの元気なときの姿だけが、脳裏に色濃く残っていました。


生きることと死ぬことは真逆ではないような気がします。
40歳になってコミュニケーションを学び始めたとき、うつ病の人がいました。
その人は「死ぬことを考えたとき、初めて生きることを考えた」と話してくれました。

私自身も経験したことがあります。
自分の存在価値を見失ったとき、死ぬことを考え始めました。
それは、最後に誰に会うか、最後にSNSに何を残すか、最後にどんな洋服を着るか、どんな方法で死ぬか、いつ死ぬかまで、24時間かけて具体的に決めたことがありました。

そしていよいよ車を借りに行く時間になって、立ち上がった瞬間…
「死ぬ気になったら何でも出来るんちゃう?」と左後ろから声が聞こえました。
家には私一人でしたが、あきらかに私の声ではなかった。
で、私は(まぁ、それもそうやな…)と思い、もう一度椅子に座ったのでした。

それから、じゃあこの問題をどうやって解決するか?具体的に考え始めました。
それまでは、ただただ悲観するだけだったけど。
そして(ほんまや、死ぬつもりやったら何でもできるわ)と思うに至りました。

どうやら「生」と「死」は隣り合わせ。
どちらかを良しとするのも、どちらかを排除するのも、おかしいことになりそうです。


もしきみちゃんが、身をもって私に伝えようとしてくれていることがあるとすれば何だろう?
わかりませんが…
「無情な人生を情で生きろー」と言ってくれているような。



もやもやした気持ち、話してみませんか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?