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看護師になったことを悔やんだ日

祖母の死を追いかけるように、植物状態で3年生きた叔父が亡くなりました。
翌年、父と母は離婚しました。
それから約20年・・・

私は高校を卒業して薬品会社のOLとなり、その後、医療事務職、看護学校へと進み、27歳で看護師になりました。
初めての就職先で阪神大震災を経験し、結婚し、転居し、神経症になり、働きながら不妊症の治療をして40歳を迎えようとしていた頃のことです。




1.突然の父の言葉

その頃、大阪に戻って来た私たち夫婦は、父の家に居候していました。
父は伝書鳩のように決まった時間に家を出て、いつもの時間通りに帰宅するサラリーマンでした。

私もその時間に合わせて夕食の支度をしていましたが、(あれ?)と時計を見ると、いつもの帰宅時間を過ぎていました。
胸を何かがふっとよぎったような気がしました。

「本屋さんにでも寄ってるのかな?」と夫と話していました。
父は曜日ごとにウクレレ教室、社交ダンス、カントリーミュージックなど出かけ、週末は登山や旅行など多趣味でした。

30年間のサラリーマン生活は決してラクではなかったと思うけど、定年後は週5日身体障碍者施設にボランティアに行ったりと、まるで自分の人生を取り戻すかのように活動的でした。
まぁ、きっと寄り道でもしてるんだろう…と思っていました。


いつもより40分ほど遅く帰宅した父は、心なしか気がないように感じました。
「ただいまー。」と言った後しばらく黙っていましたが、脱いだ洋服を掛けながらおもむろに話し始めました。

「会社の健康診断でひっかったんや。なんや、腫瘍マーカーっていうやつが高いらしいで。これ見たらわかるか?」
そう言ってカバンから血液検査の結果を取り出し、私に手渡しました。

父は定年退職後、再び会社に復帰して嘱託として働いていました。
確か半年前の検査は異常なかったって言ってたけど・・・



2.看護師であるがゆえ

看護師の宿命というか、看護師だからこその苦があります。
昔、外科病棟で働いている看護師はガンになりやすいと聞いたことがありました。
今となっては、病棟限らずガン患者さんの入院があるのであまり関係ないかもしれませんが。

私が医療事務から看護学校に進もうかなと考え始めたとき、唯一ひとりだけ相談した看護師さんがいました。
同じクリニックで働いていた看護師さんで、外科で10年以上の経験がありました。

「行き、行き。せのさん看護師向いてると思うよ。わぁ嬉しい、応援するわ。」と言ってくれました。
看護学校に合格しなかったらそのまま事務職でいるつもりだったので、内緒の話にしてもらいました。
そして静かに見守ってくれていました。


ところが私が看護学校に合格し、入学のためクリニックを退職した後のこと。
その看護師さんが乳ガンだとわかり休職していることを、他の職員から聞きました。
33歳です。
幼稚園の女の子と小学生の男の子がいました。

頭を打たれたような衝撃でした。
会いに行きたいと思ったけれど、御主人から「本人に告知していないから見舞いに行かないでほしい」と伝言があり、もがくような気持ちでした。

半年たった頃、望まない知らせが入って来ました。
手術後も毎月病院を受診していたにも関わらず、ガンが全身に転移していることがわかり、御主人がひどく怒っていると知りました。
それから、約2週間でした…



10年間外科病棟で働いている間に、乳ガンの患者さんを数えきれないほど看て来た看護師さんでした。
症状や治療はもちろんのこと、術後のリハビリの指導もされていました。

…まるで自分が乳ガンであることを知るために、外科病棟で働いていたかのような。
本人に告知していなかったのは、おそらく家族が恐怖に耐えきれなかったのだろうと思います。

でもきっと本人は、誰よりも確実に自分自身を診断していただろうと思います。



3.見えてしまう未来

父から受け取った血液検査の結果を見て、私は一瞬息が止まりました。
すぐに3ケタ並んでいる数値に目が留まり、左に目をやると腫瘍マーカーの項目でした。

クラっとして、一瞬すべての数字がぼやけました。
慌てて焦点を合わせ直すと、正常値の10倍以上の数値になっていました。

そのまま他のデータに目をやると、腎機能は悪くない、肝機能もさほど悪くない、炎症もそれほどない。
気になったのは胆汁の数値でした。

(え、胆のうガン…?)
看護師としての診断ではほぼ確定でした。
全身が心臓になったように自分の鼓動が響き渡っていました。


(何か言わないと…)と焦りましたが、断定を避けました。
「うーん…、胆のうの数値が上がってるけど炎症かなぁ?お腹何ともないの?」と。
「べつに何ともないで。まぁ詳しい検査に行けって紹介状もらったから、あさって行ってくるわ。」と、父は新聞に目線を落としながら穏やかに言っていました。

とりとめのない世間話をしながら夕食を食べていましたが、父も私も心ここにあらず…だったことはわかっていました。
たぶんお互いに。

ただ、刻々と時計が動くのに合わせ、看護師の私が恐怖を確定させていきました。
普通を装い片付けを済ませた後、私は自分の部屋に行き、ベッドの上で泣き崩れました。



この時ほど自分が看護師になったことを恨めしく思ったことはありません。
(なんで私は看護師になったの…?!)
(パパの病気を誰よりも早く知るため…?!)
看護師であるがゆえ、その経験からおよその未来が見えてしまうのです。

仕事に行き、できるだけ普通を装って生活し、夜は泣きつかれて寝てしまうまで泣き明かしていました。
(パパがいなくなったらどうしよう?!)
(一人じゃ生きていけない…!)

一人っ子だった私は結婚してもパパっ子で、仕事や夫婦関係など悩みごとを相談するのは、もっぱら父親でした。
結婚してからも何度父に離婚を宣言して引っ越し代を送ってもらったり、神経症になったときは何週間も静かに過ごさせてくれました。

だけど父はいつも私を自分の子供扱いせず、第三者としての意見を言ってくれる人でした。
その父がいなくなる世界を私はどうしても受け入れることができず、恐怖で震える夜が続きました。


まだ確定したわけじゃない・・・
だけど私のカラダは、これから起こることを知っているかのようでした。

ある日はベッドの上で足をバタバタして「嫌だ!嫌だ!」とわめき散らし、
ある日は夜空に向かって「助けてください、そうしたらもっと良い人になります」とお願いし、
これから父に訪れるであろう苦しみを代わってあげたいと願いました。

どんなに心の中で「まだ確定したわけじゃない」と思っても、カラダが感じている恐怖を誤魔化せませんでした。
そして、父はそれから2ヶ月と少しでした…



4.カラダには予知能力がある

“胸騒ぎ”や“虫の知らせ”という言葉をご存じでしょうか。
その感覚は体で感じています。

私たち看護師は、言葉にするのはおこがましくて憚れますが、(あ、もうそろそろだな…)とか(あ、まだいけそうだ)という感覚があります。
それは心理学を13年間やってきた今だからわかるのですが、直観力です。


何十人も患者さんがいて、無数の処置や業務が重なり合う中で、私たちは常にその直観に従って判断していると思います。
逆にその感覚がなければ看護師はやっていけないかもしれない。

それは診るでもなく、看るでもなく、『傍観』しているとわかります。
人間の身体が持つ力ははかり知れなくて。
ホメオスタシス(体の恒常性)は目の前の人と同調するのです。

だからきっと患者さんは、医師の診断以上にご自身に気づいていらっしゃるだろうと思います。
たとえ告知していなくても。



もやもやした気持ち、話してみませんか。


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