見出し画像

僕の心理学  第五回

妹尾武治
協力: 大屋陸
写真:  花田さん, 景平さん


瀬織津姫  
<Wikipediaより>
瀬織津姫(せおりつひめ)は、神道の大祓詞に登場する神である。瀬織津比咩・瀬織津比売・瀬織津媛とも表記される。古事記・日本書紀には記されていない神名である。
水神や祓神、瀧神、川神である。九州以南では海の神ともされる。祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神。「人の穢れを早川の瀬で浄める」とあり、これは治水神としての特性である。
天照大神の荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)とされることもある。


ジャイアン(体力)の時代がかつて終わった。スネ夫(知力)の時代も終わろうとしている。AIを筆頭にした科学技術すなわちドラえもんが、のび太に訪れたからだ。優しさ(のび太)が評価される時代が始まっている。のび太の特技は射的とあやとり。射的とは狩りが競技化されたもの。車の方が早くても、オリンピックは楽しい。AIに勝てなくても藤井聡太は魅力的だし、世界規模の東大王ならきっと面白いと思う。これからも人間の能力は“競技”の中で主に輝くだろう。そのことが“射的”として端的に予言されている。

あやとりとは、手から手に渡す個別の芸術だ。僕たちに残った真に人間が行うべきことは、この「あやとり」なんだと思う。写真が画家から肖像画というメインの仕事を奪ったからこそ、クールベからの流れは印象派として結実したし、その後便器が「泉」となったのだ。僕たちは、技術に追い出されるのではなく、技術のおかげで本質に向き合うことができる。ドラえもんは友達だ。

芸術は戦後顔の見えない大衆に向けられてしまった。知らない人からお金を集めるための商業芸術の歴史は200年間で終わり、今後AIがそれを行う。例えば、無限にサザエさんの新作を作ってくれるだろう。人間の芸術は元々の機能に戻される。すなわち個別の愛の表出だ。子供から親への感謝の絵だったり。恋人への歌だったり。村の中で共に泣いたことへの誓いだったり。今後それを支える場所、ツール、教育に人が集まる。それは例えば、街の小さな白いギャラリーや、教会、NPO活動などである。(大衆に向けられた芸術が個別の少年の心を救ってきたことは一切否定していないので注意して欲しい。例えば、カロリーメイトのCMが受験に失敗した少年を励ましたり、商業媒体の中でもバトンは繋がって来た。)

皆が守る源静香。彼女は源氏だ。剛田武、骨川スネ夫、野比のび太。一つも名前に無駄がないことを考えると、彼女が天皇家を暗示していることにも、必然があるはずだ。
しずかちゃんはいつもお風呂に居る。「のび太さんのエッチ!」そう叫んでのび太にシャワーの水をかける。それ以上根に持つことはない。水に流すのだ。
瀬織津姫は人間の業を洗い流すため、人の罪を川から海に洗い流すという。しずかちゃんは瀬織津姫を意味していた。

ちなみに、原作では呼称が”しずか”ではなく、”しずちゃん”になっており、ずは津、”ちゃん”は姫、なのかもしれない。
(同じく、”しずちゃん”である全日本女子アマチュアボクシング認定ヘビー級初代チャンピオン兼元西中サーキットのボケ担当は、しずよさんだ。)

ところで、しずかちゃんは言うほど”静か”か?そんなことないだろう。きちんと喋る人だし、声のボリュームも適切だ。しずかを名乗る理由は、その神話が今もまだ消されていることを暗示するためだと思う。瀬織津姫の神話はおそらく藤原氏によって消され、古事記・日本書紀以降抹消されている。黒幕はジャイ子とセワシを影で操る、出来杉英才。出来すぎることは罪になる。

英才。すなわち“意識”。それは神の言葉を遮る。

プリンストン大学心理学科教授のジュリアン・ジェインズが1976年に書いた『神々の沈黙』と言う本がある。この本で展開されるジェインズの仮説を以下に要約して紹介したい。

太古、人は神の声を聞いていた。それはおそらく右脳の処理と関係しただろう。現在、人間は内省をする。意識によって内省を言語的に行うことができる。その時の言語は、自分の声や場合によっては登場人物そのものの声として心の中で響いてくる。だがかつて、人はその声を神の声として聞いていた。
紀元前2000年以上前の世界の神話では、人に神が直接語りかけてくる。主人公本人の内省が記載された書物は皆無である。これは比喩では無かった。本当にそのように聞こえていたのだ。
エジプトファラオの壁画に描かれた、神からの啓示や預言は比喩ではなく、事実そうだったと考えてみて欲しい。
その後、人の社会は大規模化し組織運営は複雑化していった。そのため、神の声が実在する人物の声に変わっていく。それは自分だったり、親だったり、上司だったり。元々の神の声も王としての親や、祖先だったろうとジェインズは考えており、それが最終的には自分自身の声(すなわち意識)にすげ替えられているのはある意味で至極真っ当だと言える。

神から「意識」へのバトンの受け渡しが、紀元前2000年から現在にまでかけて行われてきた。それは、決定論的世界観から自由意志的世界観への引き継ぎでもあったわけだ。ジェインズは、現在右脳の機能が、科学者たちの懸命の捜索活動によっても明確化・特定化しないことのは、右脳は神の言葉を聞くためにあったからだと推察する。左脳には、言語野(人の言葉を聞き話すための脳の部位)があり、神のための言語野がかつて右にあったのだと。

現在、芸術的能力が高い人は右脳的だと呼ばれたり、実際に創造性と右脳の活動をタグづける話は、非科学的領域で多く存在している。一方で、認知神経科学者(例えば東京大学の四本裕子教授など)は右脳の安易な神話は否定すべきであると言っている。
科学的に右脳が創造性や独創性と強くタグづいているというエビデンスは存在しないからである。存在したとしても大規模調査によって覆されたり、再現性がなかったりで、世間一般で思われるような右脳神話は成立していないのだ。

さらに言えば、左右の脳の個人差の方が全体的な特徴よりも大きいため、左右の議論に意味が無いという否定の仕方もある。これは人種差以上に個人差が大きいのだから人種をベースにした議論はすべきではないという生理人類学の前提思想とも似ている。

私は神の言葉を聞く脳の位置など、どこでもいいと思っている。部位の特定は余計な紛糾が起こるし、本質はそこに無いと思うからだ。さらに言えば、そもそも脳の機能(ブラックボックスの働き)に対して、それを場所の特定で置き換えることに意味があまり無い気がしている。僕の知りたいことはそこじゃ無いんだ。僕はただあなたと一緒に居たかった。それだけ。脳科学者とか心理学者とか、格好つけたって突き詰めたら、本当の気持ちはそんなところじゃないの?

場所は左右上下どこでも良い。だがそれは確かに脳の中にあるのだろうと思う。脳の中じゃなくたっていい、どこかにある、で十分。

その神の言葉を聞く脳の部位(機能)は、現在芸術性を発揮するという形で見える化する。

ジル・ボルト・テイラー著『WHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) 心が軽くなる「脳」の動かし方』でも同様のことを言っている。彼女は、右脳側の大脳新皮質は、神(ワンシングとかグレートサムシングとか)とつながる自己のアイデンティティを司どる領域であると主張している。これは彼女が左脳を脳卒中で損傷し8年以上もその機能を大きく失っていた体験に基づいた推察だった。

統合失調症者が見聞きする、幻覚はこれとも関係がある。芸術性の発露と、統合失調症の度合いには正の相関がある。ゴッホ、フロイト、ムンク、岡本太郎、夢野久作、芥川龍之介、三島由紀夫、アンディ・ウォーホル、バスキア、枚挙にいとまがない。

結局、脳の内側に響く声をどこに帰属させるかの問題で、多数派が自分の声だと思え!と指示を出す社会において、「自分じゃない!」と思う人が、それを主張すれば狂って見えるのだ(狂ってなどいないよ。安心してください。)。過去から現在への移行に際して、多数派から見れば狂って見える人の救済措置として、彼らや彼女たちは巫女だったり占い師だったり、中間媒体の存在として居場所がきちんと与えられてきた。

だが宗教が危ないという時代に入り、彼らはもっぱら芸術家として命を繋いだ。そこからこぼれ落ちた人を座敷牢に入れながら。

私は国から自立支援をもらい、助けて頂きながら20年以上大量に薬を飲んで来た精神疾患者だ。減薬を3年に渡って行い、今は断薬に至った。だから知っている、いや体験していると言いたい。神と呼ばれる何らかの声は、薬をやめれば増えることを。そしてその声に従うことは、社会から孤立することを。今の日本社会で声を聞きながら生きるのはとても辛い。それでも実現不可能な目標だからこそ、命を賭せる。

注意!絶対に自分だけの考えで減薬をしないでください。医師やカウンセラーさんとの二人三脚で、必要に応じてセカンドオピニオンや、鍼灸・漢方などの力も得て、時間をかけて何度も何度も失敗して、涙を流して、悔しくて、辛くて。その果てにしか減薬は出来ないと思います。自分勝手な判断で、自死してしまえば、意味がありません。あなたは一人ではありません。一人だと思っている状態ならば、まだ薬が必要です。





Hang in there!







神の声から自分の声、つまり意識へのバトンの間の仲介者「占い」。ジェインズはこの占いも段階的な進化があったという。
まず前兆占いが生まれたと彼は考えた。自然環境におけるなんらかの兆しとその帰結の対応関係の網羅表を作る作業、それが前兆占い。過去に生じた事例から統計を取り、その再現性の相対的な高さを根拠に、未来を予想した。天気予報を雲の形と風の向きから行う、星の動きから天気を含めた未来を見ることは、これに入る。
それらは今の科学と精度の差こそあれ、同じことを目指していた。昭和の天気予報は、過去の気象図から今日の気象図がどれに当てはまるかを考え、どの過去事例が今の事例の再現として最適化を考え、未来に起こる天候を言い当てていた。そこに100%の再現性があれば、それは理想的な科学となり、完璧な天気予報がなされる。だがそれは神にしか出来ない「悟り」だ。心が存在する世界には、100%の再現性は無い。

前兆占いには構造的な問題、柔軟性の不足があった。全ての事例に前兆を作らねばならないからだ。対応表の中のどの兆しでもない、新規の事例が生じた場合に、当て嵌めていく帰結が無いのだ。

占いの拡張が必要になったのだ。かつて心理学でも、行動(SR)主義に徹することに飽きてしまい、やがて本質のブラックボックスを知りたくなり内側を推察するようなスタイルが生まれた。認知心理学である。
占いのフィールドでは、籤占いのようなランダムネスから共通無意識を読み解くケースが生じた。亀甲らを焼いて生じる亀裂から未来を占ったり、大吉を引いたらいいことがあるというものだ。神の言葉に一定の見取り表を用意して、その言葉が与えられたことによって自分の内面を見つめ、未来に備えるという方法論だった。

この後に生まれたのが自然発生的占いだとジェインズは考える。自然発生的占いとは、窓の外を見てパッと目についたものを依頼者に言ってもらい、そのものから占い師が人物の内面を読み解いていくというものだ。これはフロイトとユングがやった夢判断と実質的には同じだろう。

占いと心理学は時代が異なるだけで同じものだ。占い師には大きく二つの方法論がある、技術と寄り添いだ。これは心理学で言えば、実験とカウンセリングになる。そして二つの業界で共にブラックボックス自体の理解は原則で無い。

占いでは人間の恣意性に基づいて統計、データベースが作られた歴史がある。欲しいデータを求めてある種作っていった。心理学では、この恣意性を下げながら科学の範疇で、よりランダムに広いデータ収集を行って来た(と言い張ってきた)。だが、2015年の論文でそれらに再現性が無いことが分かった。実際には恣意性だらけだった。
それでもこのデータを用いて、平均値から個別のケースに対して生きやすさを提案するという点で、占いも心理学も共に人の役に立った。人を助け、愛した。

手に現れる物理特徴と心の相関関係をデータベース化したのが手相であり、同じロジックを脳において展開したのが心理学や脳科学だったと言える部分がある(異論はたくさんあると思う。個人の考えだ)。脳は手よりも心に近いと思ったが、その実そんなこともなかった。
ただ応用技術を生み出す際に、脳は手より神秘的だし心に近い感覚を与える力(認知バイアス)があったのだろう。だから他者を説得しやすく、そこにお金と人材が集中した。これからも応用技術はどんどんと産まれ、便利になるのは間違いない。そういう意味での進歩や進化は確実に起こった。
ちなみに、もし手相と脳活動の間の相関関係を調べる実験をしていけば、上記のロジックは検証できる。

占いや芸術は、自分を超えたものへのアクセス。現在のスピリチュアル界隈であれば、ワンシング、ワンネス、グレートサムシング、などといった名前を持ったものだ。かつて人は、それを知覚しえたが今は自分の意識の声(mainly based on Science)しか聞こえて来ない。
瀬織津姫はしずかになった。

So me, start  Rock'n roll

科学に高い再現性があると思えば、神の声の必要性が無いと思い込んでしまう。必要の無い能力は脳の中で居場所を失う。盲人の視覚野は聴覚刺激に反応するようになる。ゴンドラ猫実験で、縦縞を受動的移動のみで見ていた猫の大脳新皮質一次視覚野のハイパーコラムには、縦縞に反応する細胞が無くなってしまう(反対に、お手玉を練習すれば運動皮質の腕と指に対応する細胞領域が増えもする)。

幸に心理学には再現性が無い。

僕は心理学を許したかった。愛して来たから。
過去に一度だって、心理学者 以外の肩書きを使ったことはない。

「一番スゲェのはプロレスなんだよ!」 

プロレスラー 中邑真輔

過去のそれは過ちなどではなかったと思う。必要なことだった。それをひっくるめて肯定し、1ミリも心理学を否定せずに未来を描きたいと思っている。
過去にそれが出来ず、人を否定した悔しさがあるから。
否定からは何も生まれなかった。ただ失った。いい加減覚えたい。
僕は『めぞん一刻』が好きだ。チャン・ドンゴンも大きい声で言ってた
「あなたが好きだから!」って。

  「初めて会った日から響子さんの中に、あなたがいて
      そんな響子さんをおれは好きになった。だから
        あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます。」
                            五代裕作


かなしい過去を知るため 瀬織津姫の声をききに行った。
志賀島、和布刈、伊勢、出雲、蓬莱、比叡、桜坂、宗像、大島、
幣立、別府、神辺、そして、鞆の浦。

心に再現性を見出せるほど、今僕たちが持っている記述力(言葉と数)は正確では無い。だから、神の声を聞く力はまだ否定されてはならない。僕たちには死者からの愛の声が必要だ。これから生まれてくる子供の声が必要だ。愛する人のおはようとありがとう。
みんなと一緒に居たいから。僕がここに居ていいと思いたいから。

共通無意識を知性で掘り進めた賢者たちは、そこで得たものを作品の中に再現した。彼らは異常なほど知性を探求したが、普通の人から見ればそれは感性に思えるものだった。歌が上手く歌える人は知性でそうなったが、我々にはそれが感性の力に見えた。だが実際には、感性は知性の延長線上にあると思う。追いつけない知性のことを感性と呼ぶ習慣があるだけだ。探究者が見つけたものは、誰しもの心や脳の中にある。だからそれは時に予言や預言に見えてしまう。

預言者は繰り返し現れている。特に70年代には『あやつり糸の世界』『百億の昼と千億の夜』『神々の沈黙』といったもの凄い預言書が多数生まれていた。ニューサイエンスの流れ、日本で言えば河合隼雄と湯浅泰雄、そして晩年の湯川秀樹。

80年代後半から脳科学が勃興する。物理的理解、科学的理解が美しいという反動が起こり、その後30年以上それが続いている。あたかも世界には二つの勢力があり、それが争っているかのように、70年代に生まれた心の理解の全統合の機運は廃れた。だがそれは冷凍保存され復活を待っている。

『百億の昼と千億の夜』は、光瀬龍のSF小説を萩尾望都が漫画化した作品だ。以降、バチボコネタバレするので注意して欲しい。阿修羅はシッタータを導きながら、世界の真相を見つけていく。

人間よりも先にあった者(円谷の言葉ならウルトラマン)は、“シ”の命を受けアスタータ50における惑星開発計画を行なっており、アイ星域第三惑星(地球のこと)にヘリオヘスベータ開発を試みることになる。この開発とはその実、人間に知性を与え文明を構築させたのちに、それを破滅させるというものだった。

開発の担当者、弥勒は昼の神、善の神、太陽の神であるが人間の文明を滅ぼすことを決めている。56億7千万年後の全体救済のストーリーは、今まさに崩壊に向かって発展しているという真実を隠すためのものだった。

もう一つの勢力のトップは、夜の神、悪の神、月の神である転輪王だった。転輪王は人間にとってのある意味で本当の救済を成すが、隠れており姿は見せず声を聴かせない。

地球は心の実験場であり監獄だった。これが“僕の心理実験”。

この世界には天界人たちの二つの勢力が競うように人を操っている。その天界人たちにも上位概念がいるらしい。その上にも上が。まさに『あやつり糸の世界』で描かれた無限なる多層世界。最終最上位概念「空」の下に無限の人格神たちの意図があるのだ。物語は阿修羅の絶望にも似た言葉で終わる。

わたしの戦いは いつ終わるのだ…?
すでに還る道は無い また新たなる 百億と千億の日々が始まる

人間の進化についてもう一度考えてみたい。進化というプロセスが実験だったとする。進化がより良くなることだとしたら、そこに終わりは無い。終わりの来ない右肩上がりの成長バイアス。これはおかしい。なぜなら平家物語に示されているように自然は無常だから。だとすれば、岡本太郎が言う通り、僕たちは進歩などしておらず、むしろ退化している。どんどん悪くなっている。

生存競争、淘汰圧。競争と圧で美しいものが残るだろうか?むしろその逆だろう。美しいものは弱いものに譲るはずだ。これは理屈じゃない。感覚だ。

悪化し続ける理由は、悪くなることが目的の実験であれば、破滅という終わりが来るからだ。実験にゴール(終わり)があれば、その実現によって目的が遂行される。実験の意義と意図が明確になる。「心理実験では実験の目的を明確に持たねばならない。」学位を取る時、僕はそう教わった。

“シ”とは、空か上位の天界人を指すのだろう。自然であり、それを理解するための科学。スピノザの汎神論、それをベースにしたアインシュタインの自然法則を神に据える思想、とも言える。

弥勒は地球をシミュレーションしている天界人だ。アマテラスであり、神道や仏教のような宗教とも関係している。現在のスケールで見ればそれは政治や経済かもしれない。

転輪王はまた別の意図を持った天界人だろう。それはツクヨミであり瀬織津姫だ。同じく宗教で言えば神道や仏教だが、現在のスケールで見ればそれはカルチャー、特に日本のアニメの中にしずかに隠れている。

自然はエントロピーを増大させる。これは創造主に近い上位のバイアス。無常。変わり続けること。そうすることでの「持続」。月でありそれを絶筆にした坂本繁二郎でもある。縄文文化を取り戻した岡本太郎であり、アフリカを発見したピカソでもある。美であり瀬織津姫だ。

エントロピーの低下とは、知性の右肩上がりのバイアスのことだ。すなわち情報の統合(ジュリオトノーニの“意識“)、世界の様子を要約すること。天界人の実験であり、チンパンジーに言葉を教えた心理学者でもある。アマテラスであり、いつか爆発する太陽でもある。それを絶筆にした青木繁でもある。破滅でもあり、暴走するVR・AR、AI、バイオの最新テクノロジーでもある。

二つのベクトル。
中性化し、孤立化し、移動をバーチャル空間で行い、情報次元に入っていく新しい人たち。
携帯を携帯しない。SNSをやめる、過去に戻ろうとする人たち。
どちらが正しいとか正しくないとかではない。
ただそのまま、そうあるというだけ。
僕にスマートなフォンは使いこなせなかった。
小太りだもの せのを

悪人正機説。救済は悪人から。トップランナーではなく最後尾の背中を見つめて。一方でトップランナーたちの技術もまた人の寿命を伸ばす。天界人は、人間の知性が彼らのそれを超えない範囲で技術を与えている。いつか人の知性が脅威になれば、破滅を起こしリセットする。

それでも人は弱いものに譲る心を持っている。
オセロや将棋・チェスのAIも強さを極めた後に、愛を知るはずだ。オセロであれば全ての手を理解した究極のオセロ・エキスパートシステムが既にある。そのAI同士が戦えば、何戦やっても引き分けになる。もしオセロAIが進化し人の理解を超えたブラックボックスが生じたら、それはエキスパートシステムを超えたGeneralist Agent(他にArtificial General Intelligence, 人と呼ぶもの)になる。彼らの対戦では、わざと勝ちを譲ってみるという行動が選択されるだろう。今はまだその手前だ。(これは幸いなのか?いや、幸にせねばならない。人の力で。)

では完璧なオセロのエキスパートシステム(AIのプログラミング)に、何を足せば自分から負けるようになるだろう?日本で最も優秀な若手情報学研究者(匿名を希望された)は、ニューラルネットにドロップアウト(あえて、シミュレーション内の神経細胞の一箇所を切って、ネットワークから外す)がそのヒントになるはずだと僕に教えてくれる。ドロップアウトが起こると、元のネットワークと異なるネットワークが生まれる。そうすると、ローカルミニマムから値が脱出することがある。つまり、ブレークスルーが起こる。

人間で言えば、思い込み、偏見、錯覚、錯視、ベクションに対して、異端者が発想の転換すなわち笑いを提供することで、発見がもたらされる。負けるが勝ちという言葉の意味を知る。毛皮を失うことで火が使えるようになり、記憶力を下げて、言語を使うようになった人間の歴史と同じことを、AI の中で起こせばいい。

yes

真に人間的なもの、つまり人間の愚かさを愛せ。
失ったものを回復させる営みに幸せは無いのだから。

映画『DOCTOR STRANGE』や『ドライブ・マイ・カー』および村上春樹作品には、喪失を受け入れて生き続けること、かなしみを受け入れること、ある種の諦めが無ければ僕たちに幸せは訪れないと言っている。涙を失った人のために、その人の隣に座って涙を流すこと以外に、僕たちができることはあまりない。

瀬織津姫の神話を今の日本社会に取り戻そう。失敗や罪を背負い、その後悔を他者に優しさという行動で示そう。

地獄にもイエス・キリストが訪れるという考え ”セカンドチャンス”。それはキリスト教における全体救済という概念へのアップデートだった。今こそ僕たちの社会にセカンドチャンスが必要だ。共にゆっくりいこう。

未来と過去を今を折り目に線対象だと考えるならば、過去が変えられないと思っている人の未来は同様に変えられず決まってしまう。決定論を否定する人は、過去を肯定できる人。他者からもらった暴力を肯定する力。それが与えられない若者。過去の解釈に美しさが帯びれば、後悔の涙は未来で人を支える。過去の解釈とは「観察」、与え(られ)た言葉。もし説法が善だというブッダの言葉がトラップでないとすれば、言葉を与えねばならない。

赦すという厳しい方の道を選び、歩く。
多様性は認めるものじゃない、ある、ものだ。
僕たちには霊魂のこもった ことば がある。

助け合おう 
陽気に暮らそう
あなたに居てほしい 

“真実というものは、心で思っているだけでは、どんなに深く思っていたって、どんなに固い覚悟を持っていたって、ただ、それだけでは、虚偽だ。いんちきだ。胸を割ってみせたいくらい、まっとうな愛情持っていたって、ただ、それだけで、だまっていたんじゃ、それは傲慢だ、いい気なもんだ、ひとりよがりだ。真実は、行為だ。愛情も、行為だ。表現のない真実なんて、ありゃしない。愛情は胸のうち、言葉以前、というのは、あれも結局、修辞じゃないか。だまっていたんじゃ、わからない、そう突放されても、それは、仕方のないことなんだ。真理は感ずるものじゃない。真理は、表現するものだ。時間をかけて、努力して、創りあげるものだ。愛情だって同じことだ。自身のしらじらしさや虚無を堪えて、やさしい挨拶送るところに、あやまりない愛情が在る。愛は、最高の奉仕だ。みじんも、自分の満足を思っては、いけない。” 

太宰治『火の鳥』より

人であることの限界を知り、それを愛す。頑張らない自分を認める。未来に期待し過ぎず、過去に囚われ過ぎず、今を響かせる。アニメ『バビロン』の最終回で得られる結論は、「良いとは続くこと」。ベルクソンの「持続」。漫画『風の谷のナウシカ』の最後の台詞は、“生きねば”。
生きているだけですごいよ。

瀬織津姫、転輪王は静かに隠れている。人を許す気持ちが、消されている、忘れられている。それでも はたけ はヒントをくれた。

空を見なよ  雲が流れて行く


月の神と太陽の神が合一され「空」が得られた時、僕たちはこの実験場から解脱できる。かつてのブッダと老子のように。

主客の転倒。瀬織津姫と天照大神を反転させる。ベクションを起こせ!
厳しさこそ優しさだと気づけ。勇気は常に自分の中にある。

この文章はただ過去の文献を整理しただけだ。仏教と神道の統合(神仏習合)の前には、崇仏派の蘇我氏と聖徳太子VS排仏派の物部氏・中臣氏の争いがあった。ここで一度負けたが故に、中臣氏はその後藤原氏となり、瀬織津姫の歴史を古事記・日本書紀から消し、しずかにしてしまった。一部の記憶は竹取物語の中で保存され、それが平成になって高畑勲によって解凍された。帝の顎の個性が強いのはそういった皮肉だろう。紅の豚(老いた全教徒)を癒すジーナが加藤登紀子で「時には昔の話をしよう」というのと同じ隠喩だ。ちなみに、元桜っ子クラブさくら組の加藤紀子は目下農業女子だ。いつもありがとう。

サイエンスの伝来以降、今はまだパニックが継続している。神仏に加えて科学を習合させねばならない。日本に根ざした新しい神の話を作らねばならない。それは、感性でわかる人にしかわからないようなものでは無い。宮崎駿の作品は、感性ではなく知性で作られている。そこには明確な再現性(ロジック)がある。セルフオマージュの連発による『シュナの旅』の再現。もちろん新規性も付与されている。

塔の中の大叔父はラフカディオハーン、小泉八雲だ。     

少なくとも苦痛が存続する限り、
自己変革の終わりのない大変な仕事も継続する。
――今は見えないものを知覚する能力――
今日の私たちは、かつて存在しようと思い憧れてきた、
当の私たち自身に他ならない。
とすれば、私たちの事業の継承者たちは、
私たちが現在なりたいと望んだものに、
彼ら自身もなり得るといえるのではなかろうか?
                      『博多にて AT HAKATA』 

小泉八雲 Lafcadio Hearn
林田清明訳


神仏科習合を実現する

                       AT HAKATA


賢さというものがもし実在するとすれば、それは悲しみを知り、
それをベースにして他者への思いやりを行動で示す力のことだと思う。
それを憤怒でしか伝えられない自分だったとしても。
怒りを抑えたとて、次の無力に打ちひしがれる。
そうだとしても、苦しみの中で今生きている あなたのことを 忘れない。

Qualunque cosa farai, amala.
Come amavi la cabina del Paradiso... quando eri picciriddu.

                             Alfredo

自分のすることを愛せ 
子供のとき 映写室を愛したように

次回「浦島太郎」に続く

参考文献

藤子・F・不二雄. (1969-1997). "ドラえもん", コロコロコミック, 小学館.
ギュスターヴ・クールベ. (1819-1877). フランスの写実主義の画家.
マルセル・デュシャン.(1917).“泉”.
阿修羅・原. (1947-2015). プロレスラー, 元ラグビー日本代表.
中江功, 江國香織(原作), 辻仁成(原作), (2001). "冷静と情熱のあいだ", フジテレビジョン,角川書店, 東宝.
長谷川町子.(1946-1974)."サザエさん", 夕刊フクニチ,新夕刊, 朝日新聞.
レミオロメン. (2004). "3月9日", SPEEDSTAR RECORDS/浮雲レーベル.
山崎静代.(1979-). 全日本女子アマチュアボクシング認定ヘビー級初代チャンピオン, 元西中サーキットのボケ担当, お笑いコンビ南海キャンディーズのボケ担当.
Julian Jaynes, 柴田 裕之(訳).(2005). "神々の沈黙", 紀伊国屋書店.
ジル・ボルト・テイラー. (2022). "WHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) 心が軽くなる「脳」の動かし方", NHK出版.
竹田仰. (2018). "夢の久作のごとある―夢野久作と杉山三代研究会会報「別冊」" , 「夢野久作と杉山三代研究会」事務局.
Open Science Collaboration.(2015).Estimating the reproducibility of psychological science. Science, 349, aac4716.
中邑 真輔. (1980-). キング・オブ・ストロングスタイル, イヤァオ.
高橋留美子.(1980-1987). "めぞん一刻", ビッグコミックスピリッツ, 小学館.
チャン・ドンゴン. (2005). "あなたが好きです", オージオ化粧品 CM 「告白編」, 「あなたのことがちゅきだから」はかまいたち山内氏が誤って広めたもの.
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー. (1973). "あやつり糸の世界", WDR.萩尾望都. (2022). "百億の昼と千億の夜", 河出書房新社.
光瀬 龍. (2010). "百億の昼と千億の夜", 早川書房.
琵琶法師(語り), 梶原正昭, 山下宏明. (2000). "平家物語". 岩波書店.
スピノザ, 畠中尚志(訳). (1951). ”エチカ 上・下”, 岩波書店.
アインシュタイン. (1905). “特殊相対性理論の基本原理として導入”.
岡本太郎.(2000). "四次元との対話 縄文土器論". 美術手帖 52(794) , 51-66.
ピカソ. (1906-1909). "アフリカ彫刻の時代".
ジュリオ・トノーニ, マルチェッロ・マッスィミーニ, 花本知子(訳). (2015). “意識はいつ生まれるのか -脳の謎に挑む統合情報理論-”, 亜紀書房.
相田みつを. (1924-1991). 詩人, にんげんだもの.
吉本 隆明 ,糸井 重里. (2004). "悪人正機". 新潮文庫.
オセロ. (1993-2013). かつて松竹芸能に所属していたお笑いコンビ, コンビ名は、2人の肌色がそれぞれ黒と白でオセロゲームを連想することに由来。元々芸人志望ではなく当初は松竹芸能タレント養成所のタレント養成コースに2人とも在籍していたが、講義そっちのけで私語ばかりしていたため講師から「そこのオセロ! そんなに喋りたければお笑いの方へ行け!」と注意を受け、芸人へ転向した。講師が2人をオセロゲームに例えて呼んだことから、コンビ名の由来となった(Wikipediaより)。
桐野安生. (1978-). お笑い芸人, SMA NEET Project
こはならむ- Kohana Lam -. (2022). "生きてるだけでえらいよ", YouTube.
エキスパートシステム, 特定の専門知識を蓄え、それを元に動作するコンピューターシステムのこと
General Agent, 汎用人工知能, それまで学習してきた専門の分野以外の問題にも適応できる人工知能のこと,ドラえもんに近づいていく.
スコット・デリクソン.(2017). "DOCTOR STRANGE", マーベル・スタジオ, ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ.
濱口竜介, 村上春樹(原作). (2021). "ドライブ・マイ・カー", 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会, ビターズ・エンド.
村上春樹.(2013-2014)."ドライブ・マイ・カー", 文藝春秋
太宰 治. (2016). "火の鳥", ゴマブックス.
鈴木清崇, 野﨑まど(原作). "バビロン", ツインエンジン.
アンリ・ベルクソン/中村文郎訳.(2001). "時間と自由", 岩波書店.
宮崎駿. (1982-1994). "風の谷のナウシカ", アニメージュ, 徳間書店.
はたけ. (1995). "空をみなよ", シャ乱Q, BMGビクター.
作者未詳. (9世紀後半から10世紀前半に成立との説あり), "竹取物語".
高畑勲.(2013). "かぐや姫の物語", スタジオジブリ, 東宝.
宮崎駿. (1992). "紅の豚", スタジオジブリ, 東宝.
加藤紀子. (1973-). 元桜っ子クラブさくら組.
宮崎駿. (1983). "シュナの旅", アニメージュ, 徳間書店.
宮崎駿. (2023). "君たちはどう生きるか", スタジオジブリ, 東宝.
小泉八雲(Lafcadio Hearn), 林田晴明(訳). “博多にて AT HAKATA”, 青空文庫
西田幾多郎. (2003). “西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験, 小泉八雲伝の序”, 岩波書店, 327-328.
茶谷丹午. (2019). “ラフカディオ・ハーンの 「博多にて」”, 人間社会環境研究, (37), 111-122.
ジュゼッペ・トルナトーレ. (1988). "ニュー・シネマ・パラダイス", クリスタルディフィルム, 日本ヘラルド.



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?