「僕」と「私」の物語

ここ最近、僕の高校時代を知る人にしか会わないから髭も髪もぼおぼおになってきて、こりゃ人間ダメになると焦って1400円のシャンプーとリンスを買った。
今まで美容に気を使ったことは無かったから、ちょっといいシャンプーを買ったという事実だけで心が浮く感じがした。

その帰り道、
久しぶりに「私」が顔を出した。
きっとシャンプーのリンゴの香りに反応したんだろう。分かりやすいやつめ。
今までどこにいるんだ、と思っていたが、僕のせいだったのか。
とはいえ、「やあ、久しぶり」なんていう会話があるわけでもなく、僕は何も言わず影に隠れた。―――――


空が青い。夜道が暗い。ああ、気持ちいいな。すかさずマスクを外す。世界がより鮮やかになる。いつまででもこうしていたい。だけどそれはできない。自分の立場は知っているつもり。
早く家に帰ってこの感動を書きたい。
だけど、まだ夜道を楽しんでいたい気もして、腕の振りだけが大きくなる。
犬のしっぽに当たる部分はこの腕だな、とかどうでもいいことを考える。

きっと私が現れたところで外から見ても分からない。
変わることと言えば、少しだけ腕の振りが大きくなって、少しだけ目がぱっちり開く。
それだけ。
でも確実に私はここにいるし、間違いなく世界は新鮮になる。
この鮮度が中毒になって今度は「あたし」とか生まれるんじゃないの?とか思ったりする。きっとその子が顔を出したくなったら私も僕も陰に隠れるだろうけど、
今はこのままがいいな。
あなたと二人の関係がなんとも心地よい。

道路工事に大通りを阻まれたことを言い訳に、暗い夜道を一人歩きたくなった。
僕がそばにいてくれていることは分かっていながらも、夜道は少しばかりの恐怖がある。たまに気にする必要のない後ろを振り返ってみたりして。この背徳感がなんとも心地良い。
将来娘が夜道で襲われても、娘を責める気にはなれないなとか、しょうもないことを考えながら自宅の門を潜った。

真っ暗な部屋でパソコンを立ち上げる。立ち上がる際の画面が一瞬暗くなる瞬間は好きだ。瞬きしているのか分からなくなって暗闇に溶けていくような感覚に襲われる。
永遠に画面が明るくならなければいいのに、と内なる自分が願っている。そんなことには気づかずに私はWordを立ち上げた。
文章を書きながら僕に語りかけてみる。
「自分の立場よく分かってんじゃん。」
語りかけて気づいたが、思えば今まで会話なんて一度もしたことがなかった。会話するという発想が無かった。
生まれて初めての会話なのに僕は目も合わさず、ニヤッと笑った。
「何年一緒にいると思ってんだよ」
どこか嬉しかった。もうその言葉で十分だった。―――――


妄想の中のあの子は「私」によく似ている。僕があの子に望む返答はいつも「私」が教えてくれる。僕はこの世界で「私」を探そうとしているのか?僕は「私」という存在だけで幸せか?あの子と共に人生を歩んだとして、「私」はどうなるんだ?
―――私は構わないよ。もともといるべき存在じゃないもの。
いるべき存在ってなんだ?
世間は認めないだろうな、俺とお前が一緒にいること。
だけど、お前はお前であって、、、うーん上手く言えないな。
お前は良いとしても俺は幸せなのか?
きっとあの子は僕の思い描く理想とはかけ離れていて、分かり合えることなんてない。
自分だけじゃなくお前も殺してあの子と共に歩むのは幸せなのか?そんなに子供が欲しいか?そんなに周りに合わせたいか?
やめてくれよ、もう先に進めなくなるじゃんか。
―――先って何?大人になること?それを望んでるの?
怖いんだよ、お前と歩む人生が。いついなくなるかも分からないじゃんかよ。
―――それは誰だって同じでしょ?
そうだけど......。
永久の別れの相手が実在する人間なら言い訳付けられるじゃん。死はしかたないとか、俺が悪かったとか。
それがどうだ、何の理由も前触れもなくお前が消えた日には俺は何を頼りに生きていけばいいんだ。
―――理由が欲しいの?
ほしいよ、だって残された俺にはその後の人生もあるんだ。
―――呆れた。
なんで主人公が俺なんだよ。お前が主人公になれば、また人生楽しかっただろうに。
―――...。
出てきたい時だけ出てきやがって。
―――そうやって怒ってるあんた好きじゃない。

こうやってケンカできる仲は欲しかった。ただあの子も僕も壁があって、僕とあなたは壁の内側で、あなたと比べてしまったらどんな相手だろうと分かり合えるはずなんてない。
僕はきっと、いや、やっぱり、あなたのことが好きなんだけど、あなたがいなければ普通の幸せを手に入れられたのになんて思ってしまう。
それでもあなたが顔を出しているときは自分に自信が出るし、胸のあたりが温かくなる。
そんなおめでたい性格してるんなら僕が辛い時に出てきてくれればいいのに、なんて思うけど、
それをしちゃったらいよいよ精神病でしょ?なんていうあなたに癒される。別に慰めなんか要らない。ただいてくれるだけでいい。

追記。別に私だっておめでたい性格をしているわけではないことは強調したい。あと、いてくれるだけでいいなんて寂しいこと言わないで。

そういや、シャンプー買ってくれてありがと。
てか、やっと覚えたんだね、私と会話する術。
―――最初に話しかけたのはお前だろ?
そうなんだけど、そういうことじゃないんだよなあ

初めて彼女と話した夜、私に包まれた僕は普段見せない優しい笑みを浮かべていた。それは誰が見ても繊細で儚い美しい表情だったに違いない。

ベッドから見えた月はもうすっかり明るくなった空の影に隠れてしまっていた。

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