人生の環境分析と境遇解釈<付録ツール:その1>
「幸福って、それだけを手に入れることはできないのよ」(映画「セールス・ガールの考現学」より)
◼️パートナー・プロデュースから派生した話
シーズン3「パートナー・プロデュース」もほぼ区切りがついてきました。ただまだ、試考しきれてない部分も多々あり、さあて、どこまで引っ張ったものかと思案してます。そんな流れで、「人生積み残し」についての積み残しを書くのが今回です。パートナーの話というよりは自分ごとの話なので、付録としています。
人生の積み残しを解消して気が晴れるのはいいけど、だけど、積み残してしまうまで放置してしまう理由だってある。それも人生の一部じゃないか。大切にしてあげてよ。そんな眼差しを言語化するのが、今回の付録ツールのテーマです。
世の中では、自分を商品に見立ててマーケティングするとか、ブランドに見立ててブランディングするとか本やらネットに結構、展開されています。小生も個人ブランディングなんて未発表ながらも原稿を入れ込んで書いてしまっているくらいですからね。巷にはビジネス・ノウハウの転用知識がかなり出回っているのです。
これらの延長で考えるなら、「人生の積み残し」も同様に、理性的にアプローチすれば解消できるはず、戦略的ってやつです。本当かな?
そこで、自分の人生積み残しにどう対処するかをフレームワークにしてみました。
2つのフレームワークを試考してみました。最初が、マーケティングの環境分析を援用した「自分の人生についての環境分析」です。
今回のα版のプロト・タイプは図表87ようなフレームです。
4つの要素で、現時点での自己分析と自己視点を言語化するワークになります。(マーケティングでよく見かける3C,か4Cがベースっす)使用目的ですけど、「人生の積み残し」にたいして、あなたは自分の現状に対して、どのようにアプローチすればいいか、を考えるツール」ってことになります。
以下は、ざっくりと4要素の解説。
・すきなこと:活かしたい衝動
好きなことをして得た満足体験は何があるか、振り返ってみる。これによって、好きなことの領域を明文化する。また、現時点で好奇心を感じることは何かも意識してみて、自分の興味関心が湧き上がりやすい領域は何かを考えてみる。
例:自然にまつわること。表現活動すること。など
・できること:活かしたい能力
「それって、あなたの才能ね」とよく言われるような蓄積された能力。また、未評価でも場数を踏みながら培った試してみたい能力も活かせるかもしれません。
例:ファシリテーション能力。ネット・リテラシーの高さ。など
・まきこめること:活かしたい人脈
今の人との繋がりの延長で、周囲の人々の協力を得られそうなこと。また、未開拓ではあるけど、自分がコミュニティを主宰することで集うことができそうなテーマなど。
例:趣味仲間の中心メンバー。特定のジャンルの勉強会を起点にした新たな関係。など
・なすべきこと:活かしたい問題意識
解決したいと思う人々が抱える課題や、参画して貢献したい社会活動などを言葉にしてみる。周囲を眺めてこれはなんとかしたいと思う社会的な課題や、自分と同じような問題意識を解決しようとしている社会貢献活動です。
例:地域の教育に関する何とかできないかと思うこと。新しい自然農法を実践しているグループへの関心。など
昔、まだマーケティングが珍しい頃に、ヤスハラは終身雇用前提の会社を辞めてフリーランスに人生の舵を切るわけですけど、この時の「独立してフリーランスで働く」場面を上記のフレームに当てはめるなら・・・
「すきなこと」:図解で表現すること
「できること」:消費財のマーケティング実務
「まきこめること」:わかりやすく話すこと
「なすべきこと」:遅れている国内のマーケティング戦略の普及
当時はここまで冷静になってなかったけど(エイヤー的な独立だったが)、よく眺めると、それなりの気が晴れる要素を揃えていた決断だったな。
◼️境遇解釈、又の名を「過去の回収作業」
では、もう一つのフレームワークです。こちらの方が押し込んだ感がある「境遇解釈」という名の「過去の回収作業」ワーク。
環境分析は後から考えるなら、説明力は抜群にあります。特に、「気が晴れた」に貢献した行動ならなおさらです。でも、その実行の前夜ではどうでしょうか。いくら、理を尽くしても、踏み切れるかどうかは怪しいでしょう。止むに止まれぬ気持ちが作りあげた「これだ!、これに違いない!」的な人生行動案も、勇気なしには最後の一歩は踏み込めないのです。心の奥底には、ブレーキを踏んでいるもう1人の自分がいます。
「人生の積み残し」が、積み残され続ける理由は、積み残し内容に気がついてないからではなく、積み残しに取り組むことの恐怖感が先立ってしまうことの方が重いのです。時はきた、理は尽くした、全ては揃ったはずだが、勇気だけがまだ来ない。ちょっと来るまで待つかいな、みたいな。いや、恐怖心さえ起きなくて、「だるい話」「そもそも無理」で捌いてしまう。
そこでです! 境遇解釈を、環境分析を補完するツールとして試考してみました。今回のα版ヨタ話のメインだよ。
境遇解釈のフレーム構造(図表88)は、環境分析と同じ円の四分割図(図表87)でできています。しかし、使う意図は全く異なります。
人生の境遇とは、定義させてもらえるなら「環境に翻弄されながらも、折り合いを付けながら今に至っている私」ですかね。環境分析は「私」が主語で、影響を与えたい「環境」が目的語なんですけど、境遇解釈は「環境」が主語で、影響を受けた「私」が目的語に入れ替わります。
何を言いたいかというと・・・
いつも矛盾を抱える課題に悩まされてるけど、それなりに課題を克服したり、前向きな妥協をしたり、我慢に慣れながら生活してます。
例えば。小生の娘の不登校は、最初は生活にすごくインパクトのある出来事だったのですけど、それは自分の教育への刷り込まれた信念が動揺しているだけだと気づかされるわけです。そして、子供がフリースクールに行くことを前向き応援することが、この子の親としての境遇への再解釈なんだって捉え方を変えました。
自分の子供の不登校は一つの境遇です。「環境」(主語)が「私」(目的語)を強く揺らしている、と言えます。そして、そのお陰で、何とか折り合いをつける道に辿り着けたのです、が新たな解釈です。
「自分の教育への刷り込まれた信念」への気づきは過去を再解釈しただけではありません。「どうも、周囲から刷り込まれた信念で大方の人生選択をしてるかも、自分」まで境遇を拡張して眺める機会になってくれたのです。
人数的には増えているとはいえ、フリースクール通いは学習のメインストリームではありません。でも、それをオルタナティブとして受け入れていくことは、不登校の子どもを持つ父という境遇であり、それを受け入れるための新たな解釈です。
むしろ、そのままだったら「何で学校に行かないんだ・・・・ぶつぶつ」だったはずだし、そもそも、娘が不登校にならなかったら、父親の古い教育信念は変わる機会を失ったままになるのだった。
境遇は確かに不愉快な登場をしながらも、自分がいかに周囲の信念を無批判に受け入れていたかに気が付かせる意味をもっていたわけです。
<小ネタ:はじめ>
だれもが、自分の境遇と折り合いを付けて生活をしています。小生の娘がまだ2歳ぐらいのころに夜中に怪我をして、夜間やっている大きな子ども病院に行った時、ずーっと寝たきりで病院にいる少女とその母に出逢います。なぜか母親は明るくふるまって周囲に接してました。それは、母である彼女の境遇であり、その境遇に折り合いを付けていた(付けようとしていた)ように思えます。そこには、自分の中の大いなる葛藤があったことは想像に難くないのです。
誰にも人生の境遇はあるけど、境遇は理解できても、その人が境遇にどう折り合いを付けたのかについては誰とも共有できません。それでも人は、切に分かり合えれればと思う。だからこそ、人の境遇が元ネタになる小説も舞台も映画も、いまだに、そして、これからも尽きることはないのです。
<小ネタ:おわり>
では本題に戻って、フレーム構成の4要素を説明します。
・身体的な折り合い:
先天的な身体のハンデキャップを持てば、そことの折り合いをどうつけるかは、早晩試されます。後天的には、事故や病気で身体的な課題が該当します。習慣的な休養やメンテナンスが必須になるなど、生活を見直すように迫られることもあります。これもその人だけが引き受ける境遇です。
・心的な折り合い:
記憶が作る心的なトラウマも境遇になります。大きな失敗や事件に巻き込まれるとか、強い記憶が現在の生活選択に影響を及ぼすこともあるでしょう。どのように折り合いをつけるかが試されます。この反対の、未経験なのに強く直感を感じてそこに向かおうとする人もいます。しかし、周囲に理解されないために反対されることで葛藤が生まれるなら、折り合いをつける必要に迫られます。我慢でもなく、諦めでもない折り合いの工夫も、見方を変えれば境遇がくれるスキルです。
・人間関係の折り合い:
親子関係は生まれた時から始まる独自の境遇です。親ガチャという表現は折り合い拒絶宣言です。なので、自分の境遇を再解釈するまでルサンチマンは続きます。先に紹介した、病院で寝たきりの子を持つ母は子ガチャとは言わないでしょう。そこには、誰もが超えがたい葛藤に折り合いを付けた姿があるからです。
・社会的な折り合い:
この時代に、この国や地域で生活すること自体が境遇になります。宿命といってもいいくらい。ここに良し悪しはありません。その時代・地域の文化に染まって、共通の信念(子供は義務教育では小学校に行くこと、のような)が一旦はインストールされてしまう境遇にいるのです。なので、時代が変われば、自分が持っていた以前の信念の否定に直面しますから、誰もが恐怖と怒りを感じて抵抗するでしょう。そこには新しい信念との折り合いが必要になります。
これらの境遇解釈は、折り合いを付けた経験が人生にもう一つの意味をもたらしていたのかもしれないという、気づきの記録です。別の視点で自分の境遇を解釈をすることで、本当の人生の積み残しが何なのかに気づくヒントをくれることを期待しています。
自分にしかない境遇、自分ならではの折り合いの付け方があって、これらは残りの人生で「何か成し遂げてほしい」というメッセージを含んでないだろうか?、そう探求するワークです。人生経験がベースになる境遇解釈は人生の後半に登場します。散々、理不尽とも思える人生の境遇に折り合いをつけるために七転八倒した者だけに許される探求です。
では、人生の時間軸で境遇解釈と、環境分析の関係を見てみましょう。誕生0歳からのスタートがあって、中年期が35歳−50歳ぐらいをイメージしています。子供の頃は好奇心だけで人生選択していきますので、好奇心が動機づけ100%になります。そして、そこから成長していくわけですが、理性的な環境分析による人生選択の度合いが少しづつ増していくわけですな。
で、人生の真ん中の中年期になります(ここまで生きていくのも一つの境遇なのだろう) ここでの中年期とは人生の折り返し地点の意味です。ここは環境分析が機能するピークでもあります。ただし、個々人の寿命は不可知です。人生の真ん中といっても個人差が多すぎて、具体的な年齢のラベル貼りは、読み手にお任せです。
そして、この中年折り返し機が境遇解釈のスタートにもなります。(個人差かなりアリ)境遇解釈は、人生経験を積んだ中年期までを再活用して、残りの人生をどう生きるかを考えるための重要なナビゲーターになる可能性があります。
最終的には人生の終焉(死)が、人生の積み残しへの後悔の受託タイミングになります。後悔の有無はさておき、ここでの境遇解釈は100%です。うーむ、他界の直前にあるという走馬灯のような記憶とは、自動的に最期の境遇解釈がなされているのかも知れない。
図表89の中央矢印が示す境遇解釈スタートは、「人生積み残し」への意識と一体になってリアリティを増していきます。もう、環境分析では埒が開かないのです。つまり、何が積み残っているかはわかっていても、取り組むかどうかは知識ではなく、覚悟なのです。そう、勇気が欲しいステージでは分析は役不足なんですな。そういう意味で、「境遇解釈は、人生を試された人が、逃げることなく折り合いを付けていった勇気の履歴」とも言えます。
◼️「人生の積み残し」での相補性
ここまでをまとめたのが図表90です。人生を後悔しないように積み残しに取り組む時の相補的な2つの視点、それが環境分析であり、境遇解釈だと試考してみました!
人生の時間軸から見て、今からの「私と環境の交換の完結」は方法論としては環境分析でもOKです。ですが、方法論に行動のエネルギー「勇気」を見出すには境遇解釈が役立ちます。
人生半ばに来ている「私」は大なり小なり生きていく不条理さに折り合いを付けてきているはずです。そこには、これまた大なり小なり勇気を伴った覚悟ある行動がなされたはずです。ええ、勇気はすでにあったのです。勇気は消え物ではないのです。今も心根に密かに蓄えられていて、やや取り出すのに手間がかかるエネルギーなだけです。
境遇解釈ワークは端的にいうなら、「私は人生の矛盾にどう折り合いを付けたのか?」の履歴書作成です。
「すきと」「すきでない」が一体になっているものへの折り合い
「できる」「できない」が一体になっているものへの折り合い
「まきこむ」「まきこまれる」が一体になっているものへの折り合い
「なすべき」「なさなくてもよい」が一体になっているものへの折り合い
事の大小は問いません。自分の信念がこじれて、コンプレックスが生まれて、できればこのまま向き合いたくないものたち。しかし、向き合いたくないけど、コンプレックスで使う封印のエネルギーも人生の無駄使いですから、やはり、ここは何とかしようもがきます。もがきの痕跡には勇気があるのです。そこを言葉にして客観していくワークが境遇解釈です。
記号接地としての、自分の場合を書いてみました。図表92です。正直恥ずかしいけど、書いてみれば、しょぼいオイラもたまには勇気を奮ってたんだ、なんて微笑ましくも思えます。
図表最上段には身体的な境遇があります。身体的には運動神経のなさが小さい頃からのコンプレックスで、特に球技系の音痴具合(昭和でしたから野球がメイン)はひどいものでした。30歳の頃から、今も週一テニスをしますが、上手くなるわけでもないのが寂しいけど、当時、強く刷り込まれた運動神経のなさへのコンプレックスから自分を解放しているような気がしています。
また、図表一番下にある社会的な境遇では、信州への移住も自然へのコンプレックスの解消でしたね。東京や川崎など首都圏都市部だけで過ごしていることで、人間としてこれでいいのかなという疑問が溜まっていった気がします。自然の中で生きることが人生の積み残しだったのです。
まあ、こんな感じでそれぞれの項目にささやかではありますが、「確かに私は折り合った」という項目を書いてみました。
さて、赤字に未充足のコンプレックスがあります。書いてて「やはり、そうだよな」みたいな感想なのですが、小生の人生積み残しのラスボスみたいなもののようです。
①について。直感力に優れているとよく周囲からも言われるし、自分でも「そうかな」と思うことが多い人生でした。しかし、使い切ってない感覚もあるのです。コンサルタントとしては直感は有効ですが、あくまでも儲かる儲からないの話の範囲で使う程度です。人生での積み残しに何か関わっている気がする。
②について。できるだけ世間に対してデタッチメントな態度で生きてきたと思います。冷めたふりをして(byユーミン)なやつだったのです。時代の課題や不具合など、社会的な発言はダサいという信念で、この辺りを封印してきたらしいのです。世代的な境遇かもしれないですが、人生として取り戻せてない部分、人生の積み残し感があるのが社会課題へのコミットメントです。まあ、そんなこんなしてると不登校の娘から鉄槌をもらうのだった(苦笑。
①、②が折り合いのついてない大きな洞穴でしょうか。とにかく、小生の残りの人生の「気が晴れる」に向かって進む「見通し」はこの2項目周辺と睨んでいるわけですな。お気づきのように、この生活思創もその洞穴探検の一つです。
環境分析、境遇解釈、それに以前書いた好奇心の純化の3種は、「人生の積み残し解消運動」なんて場面があれば機能しそうです。生活思創をやり続ける「見通しの良さ」を感じます。
さて、こんな感じで付録ツールはおしまい。α版にしては原石切り出しができたようなので、小生的には満足してます。パートナー・プロデュースのシリーズ<シーズン3>はこれで区切りにします。
ただ、単発で書きたい課題がいくつかあるので、まずはそれに取り組もうかと。なので、<シーズン4>はテーマは決まってますが、ちょっと先だね。
きっと、予告編には誰も期待してないだろうが、宣言していく事で、自分の気持ちを上げていくのじゃ!
Go with the flow.
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